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 『キリスト再臨』 (イントロ〜講話五)

 Paramahansa Yogananda
 "The Second Coming of Christ:
  The Resurrection of the Christ Within You :
  A Revelatory Commentary on the Original Teachings of Jesus"

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イントロダクション
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=「イエ ス」と「キリスト」=

 本書の題名を『キリスト再臨(”The Second Coming of Christ”)としたのは、イエス・キリストの地上への再臨を文字通り意味してのことではありません。イエス・キリストは、二千年前、人々の前に姿を現 しました。神の王国へと至る人類共通の道を示し、十字架に架けられ、そして復活しました。イエスの教えが実を結ぶのに、彼が再び地上に姿を現す必要はあり ません。真に必要なのは、イエスの肉体のうちに化身した無限の「キリスト意識(Christ-Consciousness)」を、おのおのが自ら体験する ことで理解し、再び語ることです。

 「イエス」と「キリスト」という呼び名には、明確な違いがあります。彼につけられた名が「イエス」、尊称が「キリスト」です。イエスという名の人物のう ちに、広大無辺の「キリスト意識」───創造の極小の部分にまでいきわたる「神の知性」───が誕生しました。キリスト意識は、父なる神───すべてを超 える絶対者、「聖霊(Spirit)」(**)───の創造のうちで、唯一完全なる「投射」であることから、聖書では「神のひとり子」として示されます。

 この「キリスト意識」は、神の愛と至福に満ちた無限の意識であり、洗礼者ヨハネはこう言いました。「しかし、言(ことば)は、自分を受けいれた人、その 名を信じる人々には神の子となる資格を与えた(「ヨハネによる福音書」 一・一二)(*1)最も高度に進んだ弟子、使徒ヨハネの記したイエスの教えによれ ば、直観的な「自己覚醒(Self-realization)」により、キリスト意識と結ばれた人が、まさに「神の子」と呼ばれることになります。 (*2)

 小さなコップに大海を入れることはできません。それと同じで、いくら強く求めようと、物質を知覚する心身の諸機能に、普遍のキリスト意識を理解すること はできません。数千年もの間、インドのヨギや聖者、イエス、神を求める求道者らに知られてきた明確な瞑想の体系により、意識を「全知」へと───自らのう ちで神の普遍の叡智を受けとる───拡張することができます。

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*1 詳細については、講義一のこの節についての解説を参照。
*2 魂、真の自己、真のセルフを指すのに「Self」と大文字で表記する。それとは対照的に、真のセルフを知らないことから、自己であるものとされてい るのは自我(エゴ)、偽の自己、低次の自己。
 私たちが普遍の神とひとつであることを───身・心・魂において───知ること。自己覚醒が訪れるよう祈る必要はなく、またつねにすぐ近くにあるという だけでなく、神の遍在とは私たちが遍在することである。つねにそうであるように、私たちはまさに神の一部であるということである。
** シュリー・パラマハンサ・ヨガナンダは、「Holy Spirit(聖霊)」と「Holy Ghost(聖霊)」を、それぞれ厳密には「超越性の父なる波動(Spirit)と、それが活性化された波動性のエネルギー(Ghost)」としている (巻末用語集より)。必要と思われる箇所では、「聖霊(Holy Spirit/Spirit)」もしくは「聖霊(Holy Ghost/Ghost)」の表記をする。(訳注)


=キリスト意識と親交 し イエスの教えを真に理解する=

 『新約聖書』に残されたイエス・キリストの記録を理解する人はごくわずかです。イエスの言葉を読み、引用するのみです。『聖書』が聖典であることから盲 信し、おのおのの体験をつうじ、その叡智を真に理解する努力はほとんどなされません。真に理解するとは、自らの意識を「キリスト意識」に合わせることであ り、そこから正しい理解が訪れます。知性的に分析したり、ある特定の教条のみからイエスの言葉の意味を推しはかるなら、個人の目的に順じ───いかにすぐ れた目的であれ───自分にとっての快適なレベルで理解してしまいます。キリストの叡智は、論理でなく「親交(Communion)」により理解すべきで す。

 聖典を解釈する基準として唯一信頼できるのは、実際の体験による確証です───預言者らが受けとり解説した意識に入り、何を意味してそう解説されたの か、見知ることです。イエスのうちのキリスト意識を深く瞑想する人にのみ、イエスの言葉にある叡智が明かされます。そうして、神の創造すべてに存在する父 なる神の「キリスト知性(Christ-Intelligence)」の投射をつうじ、天の父の「宇宙意識(Cosmic- Consciousness)」が理解され、自らの霊性で体験され、理解と体験という光のもとで「イエス・キリスト」を知ります。

 すぐれた天文学者らは、天体望遠鏡を用いて研究を重ね、宇宙にまつわる詳細な知識を見いだしましたが、そうした技術や道具に欠ける素人にはえることので きないものです。それと同じで、覚醒した聖者らの知る「真理」「聖霊」については、自らの魂の奥深くにひそんでしまった直観を用い、聖者らのしたように、 ヴィジョンを拡張させることでのみ知ることができます。

 イエス・キリストは、かつて十字架にかけられました。しかし、彼の教えは、迷信や教条、物知り顔の神学解釈者らにより、日々十字架にかけられています。 私がイエスの言葉を霊性にもとづき解釈し、ここに差しだす目的は、イエスの「キリスト意識」───十字架から解放された───は、それを受けとるべく努め るすべての人の魂に、今一度とりもどされるのだと示すことです。より光明高き時代の幕は開き、イエスの教えが十字架にさらされるのを終わらせる時は来てい ます。「自己覚醒」───内なる光に満ちた真理の体験───により、イエスの授けた純粋なるメッセージを墓標から「復活」させるべきです。

 本書をつうじ、霊性にもとづくイエスの言葉の解釈、キリスト意識との親交により受けとった真理を世に捧げます。目覚めた直観により理解され、入念に瞑想 し学ばれたなら、真理であると分かるでしょう。
 救い主は、教条各派を互いに敵意で満たし、分断させるために来たのではありません。新約聖書を「キリスト教聖典(Christian Bible)」とすること自体誤りです。いずれの宗派にも属しません。キリスト意識が普遍であるように、イエス・キリストもすべての人のものです。


=ヒンドゥー教とキリス ト教 三相からなる意義=
 
 私は、覚醒への至上の道として、『新約聖書』のメッセージ、『バガヴァッド・ギーター』でバガヴァン・クリシュナに解説された神との合一のヨガの科学、 この二つを強調しますが、唯一なる神から様々な使者をつうじ残された聖典経典より流れる、真理の多様な表現をも讃えます。これら聖典経典は、いずれも三つ の相───物質面、精神面、霊性面───からなります。この三相は、人の肉体、心、魂の渇きを癒す、神の「生ける水」です。神から光明高き預言者らをへて 授けられた、時を超える啓示というものは、質として、三つのレベルで人のためになりえます。

 キリストの教えの物質面では、健全なる肉体と社会の幸福に適用されうる面が強調され───全世界の神の家族の一員として、個人、家族、仕事、共同体、国 家、国際社会での人のつとめについて、正しい生き方の不滅の法となります。
 精神面で解釈するなら、人の心を理解し向上させていくのに適用され───知性、心理、思考、倫理観の発達につながります。
 霊性面で解釈すれば、イエスの教えは「神の王国」への道を示し───「天の父」、万物の「創造主」との合一、究極の一体に至ることで、自らが永遠なる 「神の子」であり、魂には無限の神性が潜在することを、おのおのが悟ります。

 聖典経典の物質面、精神面の解釈いずれも、バランスのとれた正しい行いをし、神を中心にした人生を送るには不可欠ですが、神の送った使者らの記した経典 は、霊性の解釈に最も重きをおきます。物質面や知性面で成功をおさめた人々であれ、真の意味での人生の成功には失敗することがあります。円満な成功をおさ めた人、つまり、幸福で健康、知性的で充足し、また神との合一に至り、祝福多きすべてを満たす叡智で真に繁栄する人こそ、霊性の人と言えます。

 宗教の理論や理念と、個人におけるその実践には、大きな違いがあります。事実上、宗教の理念は三つの側面───倫理学、心理学、形而上学───に分かれ ます。ヒンドゥー教もキリスト教の聖書も、この三相に対応します。
 倫理学───物理的な日常に適用しうる真理───は、人としての責務、倫理的な原則、ふるまいを定めます。
 心理学───内面の幸福に適用しうる真理───は、自分を分析していく方法を教えます。自分を正し、しかるべき姿になるため、内省や自己探求により自分 を知る努力をしないなら、霊性の成長もありえません。
 形而上学───生命の霊性の側面についての真理───は、神というもの、神を知るための科学を説明します。

 これら三つの相がひとつとなり、実践に組み入れられて、宗教が成りたちます。『新約聖書』に記される倫理原則は、『バガヴァッド・ギーター』に記される ものと同じです。心理学、倫理学の側面もまた、正しく解説されるなら、一つひとつすべてが一致します。

 一見して見られる両者の違いは、ヒンドゥー教の経典───ギータを最上のものとして───が、人々にすぐれた理解力のあった、より高度な文明において記 されていることです。イエス自身が至上の叡智の体現ではありますが、彼は平易な日常の言葉で真理を表現しています。一方、インドの経典は、はるかに精緻で 深遠なサンスクリット語で編まれています。私は、聖書とヒンドゥー教の経典の中心的な教えの一つひとつを対照し、両者がピタリと一致するのを知りました。 本書のキリストの言葉の解説は、そうした理解にもとづきます。本書では、両者の一致を示すのに、聖書の教えと同一または補足的である『バガヴァッド・ギー ター』の節を引用します。引用される節や『バガヴァッド・ギーター』の全体像については、すでに別の著作(*3)で解説しています。聖書の主要な福音書四 つが伝えるイエスの言葉に示唆されてはいるものの、詳しく解説されていない真理について、補足的な洞察をえるためにも、一読されるようお勧めします。イエ ス自身が教えを記していたなら、聖書の大部分を占める弟子らとの対話や群衆への講話にあるより、より深遠な表現になっていたことでしょう。「ヨハネの黙示 録」は、イエスが高度に進んだ弟子ヨハネらに授けたヨガへの深い理解と洞察へと、隠喩により、私たちを導いていきます。それを授けられた弟子らの意識は、 内なる「神の王国」で、自己覚醒の高みへと上昇しました。
 
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*3 “God Talks With Arjuna: The Bhagavad Gita: Royal Science of God-Realization” (Self-Realization Fellowship, 1999)


=実在するイエス 私は 見た=
 
 聖典は真理のものいわぬ証拠であり、神に至った人はまさに生ける聖典です。霊性の真理は、小さな種が大樹となるように、神を覚醒した魂の生涯に顕される とき、もっとも啓示豊かで役立つ叡智の力を示します。

 イエスの具現した不滅の真理は、彼が「キリスト意識」を語った言葉に示されます。「わたしは道であり、真理であり、命である(「ヨハネによる福音書」  一四・六)(*4)イエスは神であると同時に人であり、神の子らの間で人々を育む「兄弟」、「万物の父」の愛する者として暮らし、自分のようになるよう人 々を鼓舞することで、欲望に幻惑された兄弟姉妹らを救うため、地上に送られました。イエスの生涯を記した福音書からは、彼のいう「神の王国」への道が、訓 戒だけでなく模範により教えられたことが分かります。(*5)

 聖書に記されるイエスの物語の信憑性について、現代の人々は懐疑的です。人間に可能とされる通念をおびやかす彼の超常的能力をあざわらい、福音書のいう 「神のごとき人物」など存在しなかったと否定します。歴史上のある時代、イエスが存在したことについては認める人もまた、彼が倫理道徳の師、霊性の師、カ リスマであったとするのみです。私は私自身の体験から、イエスの生涯と奇跡の真理を知ります。何度となく彼と会い、一体となり、彼から確証をえました。

 イエスはよく赤ん坊や青年の姿で私のもとに来ました。十字架にかけられる直前のイエスを見、その顔はひどく悲しげでした。また復活ののちの栄華に満ちた 姿を見ました。
 イエスは、西洋人の画家が描くような、白い肌、青い瞳、金髪ではありません。彼の瞳はこげ茶で、肌はアジア人のようなオリーブ色でした。先の少し平たい 鼻に、口ひげとまばらなあごひげを生やし、黒髪でした。顔も体もたいへん美しく形づくられ、私が西洋の絵画で見た中では、ホフマンの絵が、化身イエスの姿 にもっとも近いものです。(*6)

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*4 講話七〇参照。
*5 「歴史上のイエス」について科学的調査をした現代の考古学者、言語学者、歴史家、人類学者ら、専門家による何千という著作や論文は、イエスの生まれ た文化背景や、(より重要なものとして)イエスの死後、彼の教えが数世紀にわたりどのような解釈の変遷をたどったかに光を当てた点で価値がある。しかし、 そうした著述のいずれも、イエスの実際の行いや行動の豊かで完全な情報源である『新約聖書』にとってかわるものにはなっていない。
 エモリー大学のLuke Timothy Johnsonは、”The Real Jesus”(Harper San Francisco, 1996)で記す。「この四〇年、考古学者らの発見は、初期キリスト教の歴史的考察として、新たな事実を示すにはいたっていないのではなかろうか。… (略)…一九七九年の死海文書は、一世紀パレスチナのユダヤ教徒やユダヤ神秘主義各派の著述が、キリスト教徒らに書かれたものと似るという、それ以前には 不可能だった貴重な洞察を与えた点で革新的ではある。しかし、詳しく知る学者らは、死海文書はイエス自身やキリスト教の発展に、何ら直接的な光を投げかけ るものではない…(略)…と結論づけている」一九四五年、エジプト、ナグ・ハマディで発見されたキリスト教グノーシス派の各文書について、Johnson 教授はこう言う。「各研究機関や学者らの見解は、記述が二世紀以前のものではないことで一致する。…(略)…[つまり]最初期のキリスト教については、新 約聖書の福音書がその動向の最も信憑性のある証拠文書であることにかわりはない」(出版社注)
*6 Heinrich Hofmann(一八二四〜一九一一)。イエスの生涯にまつわるたくさんの絵画を残した画家。本書にも彼の絵画がふんだんに掲載されている。(出版社注)


=イエスの意思 真の教 えを復活させる=

 イエスやクリシュナら偉大な存在、神の化身が、もはや目に見えないからといって地上を去ったと思うのは、心狭き人々の誤った見解です。そうではありませ ん。解放に至ったマスターらは、肉体が「聖霊(Spirit)」に溶解してもなお、感応力のある信徒らにその姿を顕します(イエスが死後数十世紀にわた り、聖フランシス、聖テレサ、東洋西洋のその他おおぜいの人々のもとに現れたように)。つまり、イエスは今なおこの世の運命に関わり、役割を担っておられ ます。マスターらは、肉体として化身した特定の役割を完遂したのちも、神の定めにより、人類を幸福へと導き、人々の成長を支えていくことがあります。

 まさに今日なお、イエス・キリストは生き活動しています。「聖霊」として、ときには血肉の姿をとり、人目にふれることなく、時代を超え、この世のために 働いています。イエスは、すべてを包みこむその愛により、ただ天界の至福を享受することでは満足しませんでした。人々を深く心にかけ、彼に続く人々には、 神の無限の王国に至り神聖なる自由に達する手段を与えたいと望んでいます。イエス・キリストの名のもと、教会や寺院が数多くあり、繁栄と権力をえていなが ら、イエスの強調した「親交(Communion)」───神とのふれあい───はどこにあるのかと、悲しんでおられます。キリスト教の教義が説かれ、大 群衆を集める巨大な建造物は無数にありますが、深い祈りと瞑想をつうじ、真にキリスト・イエスにふれる人はわずかです。

 キリストやクリシュナが示した本来の教えを復活させることで、人々の魂という寺院に再び神をすえること、それが現代インドの不滅のヨギ、マハーアヴァ ター・ババジより、私が西洋に送られた理由です。彼の存在は、一九四六年の『あるヨギの自叙伝("Autobiography of a Yogi")』により、大々的にこの世に知られました。

 「ババジは恒久にキリスト意識と合一しています。ともに救済の波動を送り、この暗き時代の霊性について計画をおもちです。完全なる光輝に満ちたこの二人 のマスター───ひとりは肉体をもち、ひとりは肉体のない───の仕事は、戦争、人種間の憎悪、宗教的分断、物質主義の悪徳から救うため、世に啓示を示す ことです。ババジは現代の潮流、とりわけ西洋の文明社会の影響や複雑さをよく知り、東洋にも西洋にも、等しく自らを解放するヨガを広める必要性があると理 解しています」(*7)

 イエスの言葉の深遠な意味を適切に理解するという、この膨大なる作業は、キリストと望みを同じくするマハーアヴァター・ババジによりおしすすめられてい ます。一九八四年、ババジは私のグル、スワミ・スリ・ユクテスワに、インドの「サナータナ・ダルマ(永遠の真理)」の見地から、キリスト教とヒンドゥー教 の聖典経典に見られる一致について、比較研究を記すよう指示しました。(*8)さらにババジは、私が西洋での使命を果たせるよう、私を彼(スワミ・スリ・ ユクテスワ)のもとに送ると言いました。イエス・キリストの教えたキリスト教本来の教えと、バガヴァン・クリシュナの教えたヨガを並べ、教えるという使命 のために。

 数千年という悠久の間、インドは世界の霊性の頂でありつづけてきました。神聖なる魂の科学、ヨガ───個人がじかに神と親交することによる合一─── は、この地で守られてきました。若かりし頃のイエスがインドを訪ねたのも、再びインドに戻り今なおババジとともに活動している理由も、そこにあります。 (*9)「セルフ・リアライゼーション・フェローシップ(ヨゴダ・サットサンガ・ソサエティ・オブ・インディア)」のクリヤ・ヨガの教えは、遍在する「キ リスト・クリシュナ意識」の内なる覚醒をつうじ、おのおのの魂を再び神と結ぶ瞑想のテクニックであり、彼らがこの世に授けたこの真理については、時が証明 することでしょう。

 イエスが、自分がこの世を去った後、「弁護者(Holy Ghost)」を送ると言った約束を(*10)解する人々は、キリスト教徒の中でもごくわずかです。「聖霊(Holy Ghost)」は、大宇宙を活発に維持する、神聖な、目に見えない、神の波動性のエネルギー───「言(ことば)」、「オーム」、宇宙の波動、偉大なる 「弁護者」、あらゆる嘆きからの救い主───です。この宇宙の波動、「聖霊」にふれる手法は、クリヤ・ヨガの明確な瞑想の科学とテクニックにより、はじめ てこの世に広まりました。「聖霊」との合一という祝福をつうじ、人の意識というコップは、「キリスト意識」の大海を受けとるべく拡張します。クリヤ・ヨガ の実践に習熟し、「聖霊、弁護者」の存在を意識的に体験し、「神の息子、普遍のキリスト意識」へと溶解する人は、「父なる神」を真に理解し、神の無限の王 国に入ります。

 そうしてキリストは、「聖霊(Spirit)」のうちの言葉につくせぬ至福の授け主、「聖霊(Ghost)」にふれるテクニックに習熟する熱心な人々の 意識に、必ずや再び顕れることでしょう。(**)霊性の耳をもつ人々に、「聖霊、弁護者(Ghost)」を送ると言ったイエス・キリストの約束は果たされ ます。ここに記す教えの数々は、イエスがこの世に知らしめようとした真理を説明するものです───新たなるキリスト教としてでなく、キリストの真の教え と、いかにしてキリストになるか、どのように自らのセルフのうちに「永遠なるキリスト」をよみがえるかを記すものとして。

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*7 "Autobiography of a Yogi"(Self Realization Fellowship, 1974) 三三章より。(『あるヨギの自叙伝』(森北出版 一九八三年)
*8 ババジの指示でスリ・ユクテスワが記した著作とは、"The Holy Science"(Self Realization Fellowship)のこと。講話二参照。(『聖なる科学―真理の科学的解説』(森北出版 一九八三年))
*9 太古の時代、インドの霊性文化がその筆頭であったことについては、George Feuerstein, Ph.D.、 Subhash Kak, Ph.D.、 David Frawley, O.M.D.らの"In Search of the Cradle of Civilization: New Light on Ancient India"(Wheaton,3, Quest Books, 1995)に豊富な証言が記されている。「『ex oriente lux(東より、光あり)』とはたんなる常套句ではない。光明のたいまつ、とりわけ不滅の叡智の聖なる伝統とその神髄は、東半球より伝わる。…(略)…現 代文明を形づくるのに大きく寄与した中東のユダヤ教思想、キリスト教思想の創生は、はるかの東方諸国、特にインド発祥の思想から影響を受けている。あらゆ る東洋の伝統のうち、とだえることなき最古の宗教遺産を有するのは、疑問の余地なく、ヒンドゥー教である。…(略)…
 世界に現存する伝統に、ヴェーダ・ヒンドゥー以上に古く、かつ理解可能であるものは見あたらない。きわめて包括的であり、あらゆる伝統に見られる神性存 在つまり究極実在へのアプローチすべてをふくむかに見える。霊性のすべての手段が───簡潔な信心深い献身から、複雑精緻なヴィジョン、身体ポーズの活用 法まで───この偉大な伝統において、体系的に探求されている」(出版社注)
*10 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。…(略)…しかし弁護者、すなわち、 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(「ヨハネによ る福音書」 一四・一六、二六)
** 「聖霊(Spirit)」と「聖霊(Ghost)」の違いについては、第一章以降で詳しく解説される。(訳注)


=神とキリストからの啓 示と解釈=

 イエスの言葉を、気まぐれや教条主義的な感情論、神学理論で解釈するのでなく、イエスが意味したとおり解釈するには、彼に意識を合わせなければなりませ ん。「キリスト」とは何であるかを知らねばならず、イエスの示した「キリスト意識」と深く調和することでのみ、理解されます。

 私はイエスの意識と一体化し、彼が福音書に記されるように弟子や群衆に話したとき、どう感じていたかを感じました。私が伝えようとしているのは、彼の背 後にあった想いや意識です。私はキリストと合一し、たのみました。「私は聖書を私の視点で解釈したくありません。あなたが解釈してくださいますか?」そう して、イエスが私のもとを訪れたのです。
 忘我のうち、魂のうちでキリストに意識を合わせ、私は私のうちに流れくる彼の解説を、最善をつくして書きとめました。私は説明していません。理解です。 私がどう考えたかでなく、内なる理解により、導かれるままに語りました。

 イエスの言葉や寓話の多くは、アラム語(*11)から翻訳されたことで変化しており、私は一度読んでも理解できませんでした。しかし、イエスに祈り、意 識を合わせることで、彼から直接その意味を受けとりました。想像もしなかった啓示の数々が授けられました。どんな真理が隠されていたのかは、夢にも思わな いことばかりでした。本書の読者は、イエスが今日の人々に語りかけるにつれ、二十世紀もの間うもれていた意味、イエスの言葉の真の意味が───彼が弟子た ちに伝え、時を超え世界中の信徒が理解するよう望んだ真理が───ここではじめて明かされるのを知るでしょう。受容性のある人々は、メッセージをじかに受 けとり、キリストが語りかけているかのように感じるでしょう。私がしたのは、彼の想いや意識のすべてを受けとり、伝えることだけです。

 キリストの言葉にある真理を理解したいという私の一心の願いは、正しく解釈すべく作業していた時期のある晩、すばらしい確証を授かりました。カリフォル ニアのエンシニタスの保養地でのことです。私は暗い部屋で瞑想し、魂の奥深くより祈りを捧げていました。そのとき、突然部屋が暗闇から神聖なオパール・ブ ルーの光になりました。部屋全体がオパールの炎のようでした。その光の中に、祝福に包まれたイエスの姿が顕れました。

 彼の顔は神聖でした。その姿は二十代の若者で、まばらな口ひげとあごひげがあり、長い黒髪は真ん中から分けられ、その周囲に金色の光が輝いていました。 足は床についていませんでした。その瞳はたいへん美しく、これまで見た中でもっとも愛情深いまなざしでした。その両目の中に、全宇宙がきらめいているのが 見えました。その輝きがたえまなく変化し、移り変わるごとに、叡智が伝えられるのを直観的に理解しました。その栄華に満ちた瞳に、様々な世界を支え指揮す る力を感じました。
 私を見おろす彼の口もとに聖杯が顕れました。聖杯は、私に降りてきて唇にふれると、再びイエスのもとに昇っていきました。静かなる忘我のうちでの合一の ひとときがすぎ、彼が言いました。「汝は、私が飲んだ聖杯から飲んだ」

 私は頭を垂れました。祝福の証と彼の御姿に授かり、夢にもない歓びにいました。これまで目にしたことはありませんが、このヴィジョンの中で私に言ったの とまったく同じ言葉を、彼はトマスにも言っています。(*12)その言葉は、イエスが彼にそなわる理解力という成敗を私の意識に注いだと言うこと、私が彼 の叡智を飲んだということであり、彼は歓んでくださいました。この解釈を記すことを、たいへん愛情深く祝福してくださいました。私はおごりでなくそう言え ます。本書のキリストの言葉の解釈は、私のものではありません。授けられたものです。この書物が私をつうじ世に出ることを幸せに思いますが、私が書き手で はありません。私は彼の解釈をのせる乗りものにすぎません。

 私は啓示のもとで、キリストの声を聞きました。彼が深長な言葉で伝えようとした不滅の叡智のすべてを、私に語りかけるのを見ていました。若い頃、イギリ ス人の教師らから善意で勧められても、私は数か所をのぞき、『新約聖書』を読むことはありませんでした。もし読んでいたなら、彼らの教える神学論が私の目 を覆い、耳を偏らせ、キリストの声を聞くことも、彼自身が語るのを見ることもなかったでしょう。今私は、これまで私が求めつづけてきた歓び、キリストの生 涯、真理、あらゆる人々の永遠の解放について、彼から語りかけられる歓びにあります。

 イエスは言います。「わたしたちは、知っていることを語っている」(*13)本書の新たなる解釈により、イエスが世にもたらそうとした真の叡智、叡智の 覚醒というものが人々に理解されるであろうと、私は確かに感じています。彼の言葉の様々な解釈がすでに記されてはいますが、教えに付された誤解曲解の ヴェールをひきあげ、歪曲のない、本来の純粋さで新たに語り、現代文化の状況や暮らしぶりにも対応しうることを強調するため、キリストは私に啓示を与えた のだと思います。今や人々は、神学論の鏡───神の知性的理解───をうち破り、じかに神を知るべきです。(*14)こうしてある東洋人が、同じように東 の国で生まれインドで年月をすごしたキリストの教えについて、はじめて完全な研究分を記すうえでの、私の確信です。

 「普遍のキリスト意識」は、イエスという乗りもののうちに顕されました。「セルフ・リアライゼーション」のクリヤ・ヨガの瞑想の教えと、直観をへて授け られた本書の聖書の教えをつうじ、真に神を求める探求者らのうちに、今再び、キリスト意識が到来します。

 『キリスト再臨』を読みすすめるごとに、二〇世紀の経過をへて、難解さ、曲解、謎という霧が完全に払われるのを目にすることでしょう。様々な宗派や信 条、迫害、紛争、動乱は、解釈の誤りから生じました。今、キリストは、文明の発達していなかった太古の人々に簡潔な言葉で語ったメッセージを明かします。 真の「キリスト再臨」、無限のキリスト意識の内なる復活を知り救済へと至るべく、本書という聖書の「再臨」をつうじ、キリストが語りかけるのを読み、理解 し、感じてください。

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*11 アラム語は、イエスの故郷で日常的に用いられていた言語(もちろんイエスは、ユダヤ教の聖典を記すヘブライ語の教育も受けている)。各福音書の記 録として知られる最初期のものは、アラム語でもヘブライ語でもなく、ギリシャ語───当時のローマ帝国東部のlinga franca───で記されている。よってイエスの言葉は、この最初期の記録においてすでに翻訳をへている。
 福音書を解説するにあたり、パラマハンサ・ヨガナンダはキング王訳(『欽定訳聖書』一六一一年)を用いた。デューク大学教授Reynolds Priceは、キング王訳と、ギリシャ語の原典からのちに翻訳されたものとを比較し、"Three Gospels"(New York, Simon and Schuster, 1997)にこう記す。「現代では福音書の英訳がいくつかあるが、善意とはいえ、原典をゆがめてしまっているものがほとんどだ。…(略)…キング王訳はあ る原則のもと訳が進められた。原典の一単語には最小限の英単語を用い、可能なかぎりギリシャ語の語順を残す。…(略)…
 今日なお、一般書店の聖書の並びで五分もすごせば、その人気において、キング王訳に匹敵するのちの版はないと分かる。保守的な教会ではなおキング王訳の みを根拠とし、大学には何千もの『聖書学コース』がおかれる。一般に、キング王訳の人気の理由は、朗々とした語り口と重厚な文体───シェイクスピアやベ ン・ジョンソンのような───にあるとされる。原典と密に重なるその語り口からは、キング王訳の力強さや覚えやすさが、原典に忠実に訳し説明をさけるとい う原則にもとづいた自然な結果であるのことが随所で示される。ギリシャ語を用いなくなり四〇〇年近くたった現代の読者らは、おそらく無意識に、しかしかな り正確に、のちの版よりキング王訳の言葉のほうが、見知らぬ原典により近いものであると感じとっているのだろう」(出版社注)
*12 イエスの言葉は『トマスによる福音書』一三節に記される。
「『わたしと誰かを比べ、わたしが誰のようであるか言いなさい』
 シモン・ペテロは言った。『あなたは正義の天使のようです』
 マタイは言った。『賢き哲人のようです』
 トマスは言った。『師よ、あなたが誰に似ているのか、私の口は何も言うことができません』
 イエスは言った。『わたしはあなたの師ではない。あなたはわたしが量った泡立つ泉の水を飲み、酔いしれたのだ』」
 『トマスによる福音書』のいたるところで(一〇八節)イエスは言う。「わたしの口から飲んだものは、わたしのようになる。わたし自身が彼となり、彼には 隠されていたものが明かされるだろう」(M Robinson, ed. "The Nag Hammdi Library in English"(Harper San Francisco, 1990) Thomas D. Lambdinの訳より引用)
 この福音書の断片は、一九四五年まで発見されなかった。エジプトのナグ・ハマディで発掘された、二世紀コプト語手稿の一部であり、一九五五年まで英訳さ れていなかった(パラマハンサ・ヨガナンダは一九五二年に肉体を去っている)。しかしパラマハンサジは、イエスが自分に言った言葉がトマスに伝えたのと同 じメッセージであったという上記の文章を、一九三七年に記している。(出版社注)
*13 「ヨハネによる福音書」 三・一一(講話一四参照)
*14 「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しかしらな くとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(『コリントの信徒への手紙』一 一三・一二)















 

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講話一 神の化身---神の使者  
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初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。  
この言は、初めに神と共にあった。  
万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。  
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。  
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。  
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。  
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。  
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  
しかし、言は、自分を受けいれた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた のである。  
言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であっ て、恵みと真理とに満ちていた。  
ヨハネは、この方について証をし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優 れている。わたしよりもさきにおられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」  
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。  
律法(りっぽう)はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからであ る。  
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる一人子である神、この方が神を示されたのである。(*1)   

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*1 『ヨハネによる福音書』 一・一〜五、九〜一八。  
 省略された一?八節については講話六で論じられる。『ヨハネによる福音書』の冒頭の部分には、大宇宙の創造に ついての深遠な真理が象徴されている。その啓示にふさわしく、ギリシャ語原典のこの部分は韻文で記される。六?八節および一五節で、聖ヨハネはキリストに 先立つ洗礼者ヨハネにふれ、イエスの生涯と行いの歴史的記述からいったんそれる。これらの節は韻文で記されたその他の節を離れ、散文で書かれている。『ヨ ハネによる福音書』の一章一八節までについて、学者らは次のように分析する。「間をさえぎる六?八節と一五節をのぞいては、この冒頭部分はセム語の韻律形 式である」───Robert J. Miller, ed., "The Complete Gospels: Annotated Scholars Version"(Harper San Francisco, 1994)(出版社注) 
 

=「来たれ キリスト 神の羊飼いよ」= 
  
おおキリストよ 神の愛する息子!  
偏見に満ちた人々の大海へとくりだし   
その残酷さは あなたの心をむち打った  

あなたが十字架にかけられたのは  
権力に対する人間性の 血肉に対する魂の 不滅の勝利  
   
過ちにひきさかれた人々を愛する者よ!  
あらゆる人の心のうちに  
最大なる愛の奇跡の見えざる記念碑をうち立てる  
あなたの言葉  
───「許しなさい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」  

両の目のくすみをはらい  
人々はあなたの伝える言葉に美しさを見る  
───「汝の敵を愛せよ。  
    心を病み、幻惑に眠ろうと、彼らもまた兄弟姉妹である」  

おおキリストよ ひとつなるスピリットのうちで  
すべての人が調和とともに集うのをさまたげる  
分離と利己主義という悪魔に  
私たちもまたうち勝つことができますように  

完璧でありながら 十字架にかけられたあなたのごとく  
避けることのできない試練の数々を 堪えしのぶことを教えてください  
逆境により不屈の精神を 誘惑により統制を  
誤解により善良さを試す 日々の試練を  

あなたを想い浄められ 無数の信徒の命が   
花のごときあなたの魂の芳香に香る  
おお神の羊飼いよ!  
数知れぬ人々を 平安なる永遠の牧草地へと導く  

私の奥深くからの切望は  
開いた叡智の目で 天の父にまみえること  
そして私たちもまた まさに神の子であると知ること  
アーメン(*1)  

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*1 Paramahansa Yogananda "Whispers from Eternity"(Self-Realization Fellowship)   
 

=イエスがはたすべき神の愛なる使命=
 
 
「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(『ル カによる 福音書』 二三・三四)  

   
 イエスはこの言葉によりそのたぐいまれなる生涯にしるしを残し、信仰深き人々の心の祭壇に、神の愛情深き慈悲 の化身として永久にすえられました。魂を導く神の羊飼いは、両手を広げ誰をも拒むことなくすべての人を迎え、その普遍の愛は彼の犠牲心、帰依心、許し、友 にも敵にも等しい愛、そして何より神への至上の愛という模範をつうじ、彼のあとに続き解放へと至るようこの世に説きました。イエスのうちのキリストは、ベ ツレヘムで飼い葉桶の中の小さな赤ん坊として、また病人を癒し、死人を生きかえらせ、過ちには愛という薬を用いる救い主として、人々もまた神のように生き ることを学べるよう、ひとりの人として人々の中で暮らしました。   
  
 人々を導き、神の権威と声で語るため地上に生きた聖なる使者ではないただの人々にとって、遍在の神の全知の神 髄、全能の神により創られたはかりしれないこの宇宙で、理解しがたい人生、理解しえない神秘を生きることは、まさに圧倒される試練です。    
 はるかの昔、古代インドのより高度な時代、リシた ちは「神は我らとともに在る」という神の恩恵を、神の化身───神は覚醒した人々のうちに化身します───という観点から明言しました。永遠、遍在、普遍 のスピリットは形をもたず、神と呼ばれる天上の姿をとるのでもありません。また創造主なる神が、創造物の中で暮らせる姿をとるのでもありません。神はそれ に値する道具のうちの神性性として自らを知らしめます。神と人の間をとりなすカーンダ・アヴァター、つまり神を知った魂、部分的化身はおおぜいいます。完 全に神とひとつとなり解放に至った存在、プールナ・アヴァターはそう多くありません。彼らが地上へ戻るのは、神の定めた使命を完遂するためです。ヒン ドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギータ』の中で、神はこう言います。「美徳が衰退し、悪徳が優勢となるたび、必ずや私はアヴァターとして化身する。徳ある者を守り、悪行を滅し正義を再び確立するため、私は時代を超え、目に 見える姿を顕す」(四・一七〜一八)神の無限の栄華のひとつなる意識、普遍のキリスト意識、クタスタ・チャイタニヤは、覚醒した魂という個人のうちでなじ みのある姿をとり、きわだつ個性、化身する時代と目的にふさわしい神の資質に恵まれます。   
  
 神のアヴァターという模範、メッセージ、導きとして地上に降りたつ神の愛の介在なしに、人々の暮らすこの大宇 宙、この世という幻惑の暗き悪影響の中で、人々が神の王国への道を見いだすのはほとんど不可能といってよいでしょう。さまよえる神の子らが創造という幻惑 の迷宮で道を失うことのないよう、神は神の光に輝き道を照らす預言者たちのうちに何度となく顕れます。  
  
 神の化身の定期的な降臨は神の創造的大事業の一部であり、そうした誕生の兆候は神の大いなる計画に織りこまれ ています。聖者らは、目覚めた魂の直感により天界の記録を読むことができ、それが神の意思にそうのであれば、そうした未  
来のできごとが知らされ、明白にもしくは暗示的に預言します。これは神が神意識のうちにある神の子らに、人々の うちの神の存在の必要性を確証する様々な方法のひとつです。イエスの降臨については、敬虔なキリスト教徒や聖書学者らが旧約聖書から引用しています。『イ ザヤ書』からの引用です。  

「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる」(七・一四)(*1)   
「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。…(略)…それほどに、彼は多くの民を驚か せる」(五二・一三、一五)  
「私たちは羊のむれ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせ られた…(略)…捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた…(略)…それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を 受ける…(略)…多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしたのは、この人であった」(五三・六、八、一二)  

 人々が自らの過ちにより苦しんでいる原因と結果の宇宙の法を軽減するための神の介在、それがイエスがは たすべく降臨した愛の使命の核心です。モーセは人々に神より法をもたらし、故意の不注意には恐ろしき審判が下ることを強調しました。イエスは正確無比な法 にあっても神の愛は避難所であるとして、それを実例により示すために来ました。同様に、イエスはゴータマ・ブッダ、「光明をえた者」に先立ちますが、ブッ ダという化身は、人々の忘れかけていたダルマ・チャクラ───各自の現在の状況の責任は、「宇宙の独裁者」にあるのでなく、自らはじめた行いとその作用に ある───について思いおこさせるためでした。インドでもっとも愛される化身バガヴァン・クリシュナが、神の愛ならびに神との合一という至上の霊性の科学 であるヨガの実践をつうじて神の真理を説いた、より高次の時代から時が経過し、インド太古のヴェーダの伝統がおちいった乾いた神学論と機械的な儀式主義 に、ブッダは核心をとりもどしました。  
  
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(*2)神に親しき者の介在は、したがわずに いたことで自ら生じた宇宙の法の作用にたいし、力を弱めた人々に立ちあがりうち勝つのに必要な強さを授けるなだめの甘露です。何ものをも通さぬ叡智の守り を差しだし、ときに熾烈な猛攻撃をそらします。  
  
 イエスは彼が讃えられることのほとんどなかった暗き時代に降りたちました。しかし彼の神の愛のメッセージと人 々の苦しみへの介在は、その時代のためだけでなく、来たるのちすべての時代のためのものでした───神は光明高き時代にも、もっとも暗き瞬間にも、人々と ともにあります。  
  
 「神は聖霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(*3)そうでは あっても、イエスは絶対者である神が、祈りにより乞い、愛情深き天の父として応える人格をそなえた審判を下す恐ろしき創造主でもあることを世に示しまし た。  

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*1 『ヨハネによる福音書』 一四・二四(講話一八参照)。  
*2 『ヨハネによる福音書』 一五・一三(講話七一参照)  
*3 「神は我々と共におられる」(『マタイによる福音書』 一・二三)を解説したものである。 
 

=アヴァターの本質=

 神の化身の偉大さを理解するには、アヴァターのうちに化身した意識の源および性質につ いて理解する必要 があります。イエスは次のように言明することで、この意識について語りました。「わたしと父とは一つである」(『ヨハネによる福音書』 一〇・三〇)、 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(同 一四・一一)自らの意識を神に結んだ人は、スピリットの超越性 と普遍性───永遠なる存在、恒久の意識、潜在的絶対存在のつねに新たなる至福というものの唯一性、また創造というパノラマのうちで神ご自身が無数の姿を とるというその存在の無限の顕現───いずれをも知ります。 

  
 創造主より生じた宇宙創造の科学的展開については、旧約聖書の『創世記』 に深遠な言葉でその概要が述べられて います。新約聖書では、『ヨハネによる福音書』のはじめの部分がまさにヨハネによる創世記といえるでしょう。直感的な認識力で明確に理解されたなら、これ ら聖書の深遠な記述は、インドの黄金時代、リシらが伝えた経典の説明する霊性の宇宙論にまさに一致します。

 おそらく、聖ヨハネはイエスの弟子の中でもっとも優秀でした。教師が、クラスの生徒の中で きわだつ理解力のあ る者が首位に立ち、他の生徒がそれより低い位置にあるのを見るように、イエスの弟子の間でもキリスト者の教えの奥行きと幅を理解吸収する程度には違いがあ りました。旧約聖書の様々な記述の中でも、聖ヨハネの残した記録はもっとも高い神性への理解を示しており、イエスが体験しまたヨハネに渡された真理の奥義 が明らかにされています。福音書だけでなく、彼の書簡と、とりわけ黙示録に象徴的に記される形而上的で深遠な体験の中で、ヨハネは内なる直感的理解におい てイエスから教えられた真理を示しています。ヨハネの言葉は的確です。彼の福音書が四つの福音書の最後でありながら、イエスの生涯と教えの真の意味を探る さい、まずはじめに考慮される理由はここにあります。 

 
=ひとつなるスピリット 万物の創造の 起源=

 「初めに言があった…」旧約聖書と新約聖書の創造の起源はこのようにはじまります。永遠なる絶対存在 ───スピリット───には、はじまりも終わりもないからです。   
  

 宇宙という空間に小さき星雲がすべりだし息づくこともなく、宇宙というゆりかごで惑星が炎の玉とし てその目を 開くこともなく、無限の広がりを横切る星々の川もなく、宇宙という大海が空間に浮かぶ人気のない無人の島であり、宇宙を太陽、月、星の一族が泳ぐこともな く、小さき屋根に小さき人々のいる小さき大地の球が存在することもなく、どんな物質も存在していなかったとき───スピリットが存在しました。この潜在性 の絶対存在は、知る者(the Knower)、知性(the Knowing)であったという以外に説明されえません。そのうちで、存在、宇宙意識、全能性、すべてが分かたれずにありました。不滅の存在、不滅の意 識、つねに新たなる歓びあふれるスピリットです。   
  
 つねに新たなるこの不滅の至福のうちには、空間も時間も、二元も相対性もありませんでした。在ったもの、在る もの、のちに在りうるものは、ひとつなる分かたれぬスピリットでした。空間、時間、相対性は、対象物の範疇にあります。人は宇宙の星を見た瞬間、奥行きあ る空間を占め、時間のうちに存在し、宇宙の中で相対的な位置にあるとします。しかし、創造という有限の対象が一切なく、それらを定義する次元もなかったと き、至福のスピリットがありました。   
  
 いつ、どのように、なぜ、創造が起こったのでしょう。因のないものに因を、永遠なる存在にはじまりを、全知で あるものにささいな理由を求め、大胆にも無限なる意識を読みとることはできるのでしょうか。(*1)熱心な人々がこうした問いを追求する一方、聖者らは神 の意識に分け入り、唯一者は多様をつうじて神の至福を愉しむという、欲望のない欲望を満たしたのだと飾り気のない簡潔な説明とともに戻りました。潜在性の スピリットが「私はひとりだ。私は至福という意識である。だが私の歓びという甘露を味わう者はひとりとしていない」神はこのように夢想され、多様となりま した。  
  
 私はこの宇宙の思慮を、詩的で幻想的な表現で次のように記しました。  
  
 「目に見えぬスピリットは、無限の住まいにひとり在った。たえず新たなる、たえず歓ばしき完全なる至福の歌を 奏でていた。自らの永遠という声で、自らに歌を歌いながら、その歌を耳にし愉しむ者が自分以外にいるのだろうかと思いめぐらせた。自らに故意に与えた驚き により、独りであるのを感じた。自らが歌であり、歌う者であり、愉しむ者であった。かように考え、見よ、二つになられた。神髄と現象、男と女、陰と陽、花 のおしべとめしべ、クジャクの雄と雌、鉱物の男性と女性」  
  
 スピリットは存在する唯一の者であり、何ももたず、創造を行う「それ自身」でした。スピリットとスピリットに よる大宇宙の創造は、本質的に異なるものではありえません。永遠に存在する二つの無限の力が、定義上は不可能でありながら、互いを絶対とすることで同意し ているからです。通常の創造には、創造者と創造物という二元が必要です。よって、スピリットはまず魔力的幻惑、マーヤー、宇宙の魔術的計測者を生じさせ、 目に見えない無限の一部を有限の分断された対象に分けるという幻惑を生じ、ないだ海にさえ嵐という作用によってその表面に個別の波というゆがみを生じまし た。スピリットの創造的な波動活動により一見多様に見えてはいても、創造のすべてがスピリットに他なりません。  

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(*1) 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われ る。天が地を高く超えているように、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ書 五五・八〜九) 
 

=三位一体 父と子と聖霊の意味= 

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共に あった。  

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。  
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(『ヨハネによる福音書』一・一〜四)   
   
 「言(ことば)」とは、神より生じた知性の波動、知性エネルギーのことです。「花」と言うときのように、知性 をそなえる人間の発するどんな言葉も、音のエネルギーつまり波動プラス想いで成りたち、その想いが波動に知性的な意味あいを吹きこみます。同様に、あらゆ る創造のはじまりであり源である「言」は、宇宙の知性を吹きこまれた宇宙の波動です。(*1)  
  
 物質にある想い、物質を成りたたせるエネルギー、物質そのもの───あらゆる物質───は、スピリットの波動 の聖なる思念の数々にすぎません。人もまた夢の中で、光があり雲があり、人が生まれ死に、愛し、戦い、暑さと寒さ、苦痛と快楽のある世界を創ります。夢の 中の誕生と死、病、液体・固体・気体は、夢を見ている人の波動の異なる想いにすぎません。この大宇宙は、時間、空間、人の意識の上に映しだされた、神の思 念の波動からなる夢という動画です。   
  
 「言は神と共にあった。言は神であった」、つまり創造の前には、分かたれていないスピリットがあるのみでし た。創造を具現するさい、スピリットは父なる神、子、聖霊となりました。  
  
 マーヤー、幻惑という宇宙の魔術的作用の活動をつうじて、スピリットが宇宙の波動からなる思念へと展開するや いなや、潜在性のスピリットは父なる神、あらゆる創造的波動の創造主となります。父なる神はヒンドゥー教ではイシュワラ(宇宙の統治者)もしくはサット (宇宙意識の純粋なる至上の神髄)───超越知性───と呼ばれます。つまり、父なる神は波動によるあらゆる創造の振動───意識、分かたれた宇宙意識 ───を超越し、ふれることなく存在します。   
  
 スピリットより発する波動の力は、マーヤーという幻惑的な創造の力をそなえており、それが聖霊です。宇宙の波 動、「言」、オーム、アーメンです。聖霊つまり聖なる波動のうちのあらゆるもの、あらゆる惑星、あらゆる生物は、神の発想が凍結したものに他なりません。 ヒンドゥー教では、この聖霊をオームまたはマハー・プラクリティ(偉大なる自然(Great Nature)、あらゆる創造を生じさせる宇宙の母性(Cosmic Mother))と呼びます。科学者の間でも、物質とその構造、細胞、要素は、ある程度まで宇宙の波動であるとして知られています。「アーメンである方、 誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」(*2)オームまたはアーメンという聖なる宇宙の波動は、あらゆる創造のうち に顕現された神の存在を目撃する者です。  
  
 空間のうちに遍在し活動する宇宙の波動は、不可思議にして複雑な宇宙をそれ自身で生じ維持することはできませ ん。大宇宙は物理学者らが提唱するような、液体・気体・固体の偶然性の変化が大地、海、惑星となり、それらのすべてが調和とともに相関し、人類の住みうる 環境を提供しているといった、波動の作用や分子原子の偶然による結合の結果ではありません。たんなる作用の数々が、自らを体系化された各対象として統御す ることは不可能です。水を立方体に凍らせるには、四角い仕切りのあるトレイに注ぐという人の知性が必要であるように、波動の集まりが大宇宙の至るところで 集合的に展開するさい、隠れた潜在的知性の結果を見ることになります。   
  
 父なる神の超越意識は、聖霊のうちで「子」───キリスト意識、波動による創造すべてのうちにある神の意識 ───として具現されます。この聖霊のうちの神の純粋な投影投射が創造、再生、維持を直接的に導き、神の神聖なる計画にしたがい創造を形づくります。   
  
 夫が息子として妻のうちで誕生するように、聖霊、大宇宙の聖母マリア(原初の創世)のうちに顕現された超越性 の父なる神が、唯一なる投射、ただひとりの子、キリスト意識となります。   
  
 ひとつなる不滅のスピリットがいかに三位一体となるのか、ある例えを用いて説明することができます。父なる 神、子、聖霊は、ヒンドゥー教の経典ではサット、タット、オームとして知られます。それのみで存在し、あたりをとりまくもののない太陽を想像してみてくだ さい───莫大なるエネルギーと熱をそなえる輝かしい光の塊であり、無限の宇宙に光を放ちます。その光の範囲に青い水晶玉をおきます。すると太陽と水晶玉 には相互の関わりができることになります。太陽光は、水晶玉にふれずに周囲にさす活動性のない超越的な白い光と、本質的には不変であるものの水晶玉により 屈折して青く見える光に分断されます。このように、唯一の太陽光が白い光と青い光に分断されたのは、青い水晶玉という第三の対象の分断の作用によります。   
    
 太陽が純粋な輝きであり、それのみで放射状に光を発しているように、波動による創造の一切ないスピリットは潜 在性の絶対存在です。しかし、「青い水晶玉」という具現化された宇宙というものを導き入れたなら、スピリットはオーム、聖霊───波動領域のあらゆる対 象、あらゆる隙間に遍在するキリスト意識として投射された神なる知性、宇宙意識、超越性のあらゆる創造の父なる神───より展開した、あらゆる具象という 波動性の物質に分断されます。(絶対性を定義するのに用いられるたとえのほとんどは、よくて不完全な似せ絵にすぎない。物質というものにある限界から、そ れらを用いてもっとも精妙な霊性真理を説明することは不可能である。太陽と水晶玉のたとえでは、太陽は水晶玉を創造しないが、一方スピリットは神の思念を 具現するのに、自らの創造的な波動性の力を用いて聖霊を展開させる)  
  
 このように、例えを用いるなら、宇宙の独身者であるスピリットが、大宇宙を創造するため自ら活性化して夫、父 なる神となり、大宇宙の聖母マリアつまり宇宙の波動と結ばれ、自らの投射であるひとり子(*3)を誕生させました。創造のあらゆる粒子に存在するキリスト 意識は、分かたれることのない絶対実在、父なる神の純然たる投射です。よって、キリスト意識、ひとり子は遍在であり、諸作用からの超越をたもちます。つま り、キリスト意識は創造における活動性の要素ではありません。波動による創造のあらゆる部分を具現化する、差異化され、波動性の、分かたれた知性意識が聖 霊であり、それがひとり子に吹きこまれています。活動のない活動であるキリスト意識、つまり子は、神の知性による聖なる計画が意識という姿をとったもので あり、聖霊の働きを永遠に目撃する者です。遍在するキリスト意識のうちに顕現された神の意志にそって活動することから、聖霊(Holy Ghost)は神聖(Holy)であるとされます。  

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*1 何世紀もの間、教会の正式な教義では「言」(ギリシャ語原典では「ロゴス」)はイエス自身を示すと解釈さ れてきた。これはこの節での聖ヨハネの本来の意図を理解するものではない。学者らによれば、ヨハネが表した概念は、それからだいぶたった由緒正しき教会の 解釈をつうじてでなく、ヨハネがいた当時のユダヤ教哲学者らの著述や教え───たとえば『箴言』(ヨハネや当時のユダヤ教徒によく知られていた)───を つうじて最良の理解がえられる。Karen Armstrongは" A History of God: The 4,000-Year Quest of Judaism, Christianity and Islam "(New York: Alfred A. Knopf, 1993)の中でこう記す。「紀元前三世紀に『箴言』を記した著者は、叡智をひとりの個人であるかのように人格化している。   
 『主は、その道の初めにわたし[叡智]を造られた。いにしえの御業になお、先だって。永遠の昔、私は祝福され ていた。…(略)…太初、大地に先立って。御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造ら れた地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ』(『箴言』 八・二二〜二三、三〇〜三一)  
 タルグームとして知られるヘブライ語原典のアラム語訳は、この時代(つまり『ヨハネによる福音書』が記された 当時)に編まれており、『メムラー(言葉)』という用語が用いられている。この用語は、この世での神の存在と、理解しがたい神そのものの違いを強調する 『栄光』『聖霊』『シェキーナ』といった用語と同様の機能をしている。神の叡智同様、『言葉』は『創世記』における神のそもそもの計画を象徴する」   
 教父の初期の記録でも、それが聖ヨハネの意図した意味であることが示されている。"Clement of Alexandria"(Edinburgh: William Blackwood and Sons, 1914)の中でJohn Patrickは言う。「クレメンスはくりかえし『神の叡智』と『言葉』を同一のものとしている」またケベック州Laval大学の神学科教授Dr. Anne Pasquierは、”The Nag Hammadi Library After Fifty Years”(John D. Turner and Anne McGuire, editors; New York: Brill, 1997)の中で言う。「フィロン、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス…(略)…みな『ロゴス』を旧約聖書の『神は言われた。そのようになった』 という『創世記』 の記述の神の言葉に関連づけている。ヴァレンティノス派によれば、『ヨハネによる福音書』のはじまりは魂の創世、物質のひな形を記すものであり、旧約聖書 の創世の記述を霊性の面において解釈したものとされる」(出版社注)  
*2 黙示録 三・一四。  
 ヴェーダのオームが、チベットでいう聖なる言葉「フン」、ムスリムの「アミーン」、エジプト人、ギリシャ人、 ローマ人、ユダヤ教徒、キリスト教徒のいうアーメンとなった。ヘブライ語のアーメンの意味は「確かな、信仰深い」の意。  
*3 「私の子宮は、私が種(私の知性)をまく偉大なるプラクリティであり、それこそ万物誕生の因である」 ("God Talks With Arjuna: The Bhagavad Gita: Royal Science of God-Realization." 一四・三) 
 
  
=神の創造 コーザル・アストラル・物 質の三層=

 聖霊、創造性のオームの波動、知性としてのスピリットは、宇宙の創造性の波動速度を変化させることによ り自らを物質へと変質させます。宇宙の知性が活動する大宇宙の知性、意識の波動となり、宇宙のエネルギーに変質します。電子と原子は分子から成る星雲とい う気体に変質します。拡散性の気体の集合である星雲が液体、固体という物質に変質します。宇宙の波動として、万物はひとつです。しかし宇宙の波動が物質へ と凍結するさい多様となります───多様に分かたれた物質のひとつである人の肉体もそうです。(*1) 

 聖霊の創造性の波動をつうじてのこのスピリットの変容───無限のうちで相対的に微少な範囲で生じ るもの ───は、三層からなる創造物を生じます。ひとつめは、概念的、原因的、意識のもっとも精緻な波動で、あらゆる形、作用の因である神の意思、発想。二つめ は、光と生命エネルギー、波動性のエネルギーのアストラル界で、ひとつめの概念をおおいかくすまず初めの凝縮。三つめは、物質のより粗雑な原子的波動の物 質世界です。これら三つの世界が互いに重なりあい、粗雑なものはより精妙なものをよりどころとし、究極的には三つの世界のすべてが神の意思、意識のみに支 えられるよう条件づいています。   
  
 大宇宙というマクロコスモスがそうであるように、人というミクロコスモスにもこの相互によりあう三つの体があ ります。人の魂は、姿をとった魂が知覚し、理解し、神の創造と関わりあうのに道具として機能する三つのおおいをまとっています。魂をおおう一番目のたいへ ん薄いおおい、スピリットから個別化するものは、純粋意識のひとつです。神の思念、発想でなりたち、他の二つのおおいを生じます。よってコーザル体 (causal=生じる)と呼ばれます。思念は光の磁力的作用と知性エネルギー───私がライフトロンと呼ぶもの───を発し、それが人のアストラル体を 形成します。ライフトロンからなるアストラル体自体が生命エネルギーであり、五感と肉体の諸機能すべてに力を与えています。肉体とは、コーザル体の思念を アストラル体の生命エネルギーが活性化し、粗雑なレベルへと物質化したものにすぎず、意識、自我、およびコーザル体からの知性をそなえます。ミクロコスモ ス、マクロコスモスにおける波動によるこれら三層の具現化は、すべて聖霊の波動、神の超越意識から生じています。これをヨハネは次のように要約しました。 「彼(言)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(『ヨハネによる福音書』 1・4)(*2)  
  
 近現代の知識情報を表現する用語になじみのなかった聖書の執筆者らは、宇宙の知性的波動の性質を示すのに「聖 霊」「言」を用いる傾向が多分にありました。「言」とは、物質化の作用をそなえる波動性の音を示し、「霊(Ghost)」とは、知性的な、目に見えない、 意識作用を示します。「聖(Holy)」とは、スピリットの具現化したものであり、完全なる神の計画にそって大宇宙を創造しようと働くことから(*3)、 そうした波動の説明です。  

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*1 理論物理学の近年の進歩が「超弦理論」と呼 ぶものは、創造の波動性を理解する方向にむかっている。コーネル大学、コロンビア大学の物理学教授、Brian Greene Ph. D.は、"The Elegant Universe: Superstrings, Hidden Dimensions, and the Quest for the Ultimate Theory"(New York: Vintage Books, 2000)で次のように言う。  
 「人生最後の三十年間、アルベルト・アインシュタインは統一場理論───単一で、すべてを包含し、一貫性のある枠組み内で自然の作用を説明しうる理論───を たゆまず追求した。…(略)…新たなる千年の幕が開けた今、超弦理論の提示により、雲をつかむようであった統一場理論の全体像が明かされた。…(略)…   
 この理論は、微視的世界が大宇宙の展開を奏でる波動性のパターンに満ちていると提言する。…(略)…典型的な 弦の長さは原子核のおよそ一〇の二〇乗分の一である」  
 Greene教授は、科学は二十世紀の終わりまでに、物理的宇宙がごく少数の基本的な分子、電子、クォーク (陽子と中性子から成る)といったもので構成されると結論づけたと説明する。「いずれの分子も要素と見なされるものの、それぞれの表す『何か』はそれぞれ 異なると考えられていた。たとえば、電子の表す『何か』はマイナスの電気的作用であり、陽子の表す『何か』に電気性はない、といったように。しかし超弦理 論はあらゆる物質、あらゆる作用の示す『何か』がすべて同一であると明言することで、この絵図を根本から変えてしまう。  
 調弦理論によれば、存在するのは唯一の基本要素───弦───のみである」Greene教授は"The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality"(Alfred A. Knopf, 2004)の中で言う。「バイオリンの一本の弦が様々なパターンで振動し、それぞれが異なる音階を生じるように、超弦理論の細糸も異なるパターンで振動す るといえよう。…(略)…極小の弦のあるパターンでの振動が、集合的な電子の電気的作用を帯びる。理論によれば、このような振動する弦がこれまで私たちが 電子と呼んでいたものとなりうる。異なるパターンで振動する極小の弦は、クォーク、ニュートリノその他の分子と確定されうる特徴をもつことになる。… (略)…それぞれが、その背後にある同一のものの実行する波動パターンより生じる。…(略)…超微細レベルにおいて、大宇宙は物質の存在をもたらす振動す る弦の奏でた交響曲になぞらえることができる」(出版社注)  
*2 聖ヨハネの意図した意味での精妙な変質は理解しずらい示唆ではあるが、この節およびこれに先だつ数節の様 々な翻訳の多くでは明らかである。ギリシャ語の名詞には男性・女性・中性がある。「ロゴス(the Word)」」という名詞は男性名詞であり、英語の翻訳者に「the Word」をさすのに男性代名詞の「him」を用いるよう働きかけるだろう。しかし英語では「word」のような名詞に性の区別をつけないため、翻訳する にあたり正しい代名詞は「it」となる───人を指すのであり、人称代名詞「him」がふさわしい場合をのぞいては。よって、「him」を用いているの は、「the Word」が事実人、つまりイエスを指し示すという翻訳者の神学的解釈を反映したものである。  
 この解釈は、二世紀リヨンの司教であり"Against Heresies"を記したエイレナイオスの働きかけにその大部分を負うが、正統派教会の解釈としても受けいれられている。プリンストン大学の宗教学教授Elaine Pagel博士は、"Beyond Belief"(New York: Random House, 2003)の中で言う。「エイ レナイオスはヴァレンチノス派の弟子プトレマイオスがこの文章(『ヨハネによる福音書』 一・一〜三)を読み、上より下へと流れる神性エネ ルギーとしての神、『言』、ついにはイエス・キリストのヴィジョンをえたと伝える。つまり彼は、天上の無限なる神性の源がより小さき姿として神聖なる 『言』として明かされ、さらに人間イエスというより限られた姿で明かされたと提示する。…(略)…エイレナイオスはプトレマイオスの『ヨハネによる福音 書』の冒頭の解釈に異議を唱え、『父なる神』は『言』と等価であり、『言』は『イエス・キリスト』と等価であると主張した。…(略)…エイレナイオスに続 く人々がこれより導きだしたのは数学の等式のようなさらに簡潔なもので、神=言=イエス・キリスト、というものである。今日のキリスト教徒の多くが何らか の形でこうした等価について考慮していることこそ、エイレナイオスのはたしたこと───そして彼の正当性───の印である。…(略)…エイレナイオスのこ の大胆な解釈を事実上正統なものとしたことで、今日『ヨハネによる福音書』をギリシャ語以外の言語で読む人は、その翻訳こそが彼の解釈を明白なものにした と知るだろう」  
 しかしながら、複雑な神学論と政治的影響力による教義の段階的発展があってのみ、「言」(ひとり子)がイエス という人物を示すことになった。歴史家Karen Armstrongが"A History of God"(New York: Alfred A. Knopf, 1993)で言うように、教会が「宗教的真理の例外的概念、つまりイエスが人類にとって最初にして最後の神であったということを採択するようになるのは四 世紀になってからのことである」(出版社注)  
*3 講話七参照。宇宙の創造的波動による二元性を説明する。神の意思にそった純粋なる聖霊と、創造主からあら ゆる創造物を引きはなそうとする邪悪なるものすべての生じ手、波動的宇宙のサタン(Cosmic Satan)との二元性。 
 
 
=大宇宙の「言」「聖霊」 知性的創造 の波動「オーム」=

 この聖霊を「オーム Aum」として表すヒンドゥー教の各経典では、神の創造的計画におけるオームの役 割が示されています。「A」はアカーラつまり創造的波動、「u」はウカーラつまり維持の波動、「m」はマカーラ、消失という波動の作用を指ししめします。 海上の嵐は大小の波を生じ、一時その形をとどめ、ひいていくことで消失させます。このように、「オーム」つまり「聖霊」は、万物を生じ、様々な形にとどめ 維持し、最終的には再び創造されるまでの間、神という大海のふところへと消失させます───神による進行中の宇宙的夢想のうちでの、たえず新たなる生命と 形の再生のプロセスです。よって、「言(ことば)」つまり宇宙の波動は「万物」の源であり、「言」によらずに成ったものは何一つなかった」のです。「言」 は創造のそもそものはじまりから存在しました───神が大宇宙をもたらしたさいの第一の具現でした。「この言は、初めに神と共にあった」───「言」には 投射された神の知性、つまりキリスト意識がふきこまれ、「言は神であった」───「言」はひとつなる神そのものとしての波動でした。

 聖ヨハネの言明は不滅の真理の響きであり、太古のヴェーダの各所と一致します。大宇宙の波動性の「言」(ヴァ ク)は、他に何も存在しなかった創造のはじめ、創造の父である神(プラジャーパティ)とともにありました。このヴァクによりすべてが創られ、ヴァクそれ自 体がブラフマン(神)です。バガヴァッド・ギータでシュリー・クリシュナは断言します。「言葉のうちで、私はひとつなる音節オームである」(一〇・二五) 「あらゆる具現において、私が始まり、間、終わりである」(一〇・四二)  

 この真理を理解することで、大宇宙の背後にある科学、ならびに聖ヨハネによるこれらの節をイエス・ キリストの 生涯との関わりという流れの中でとらえることができます。
 
  

=「ひとり子」とはイエスの肉体でなく キリスト意識=

 イエスという化身の一般的な意味での「キリストの三位一体」───父と子と聖霊───は、肉体 としての イエスと、ひとり子つまりキリスト意識を顕現した乗りものとしてのイエスを区別せずにはまったく説明しえないものです。イエス自ら、「人の子」としての彼 の肉体と、肉体に制約されることのないあらゆる波動のうちのひとつなるキリスト意識、神のひとり子と一体となった魂について話すのに、そうした区別をして います。
  
 「神は、そのひとり子を お与えになったほどに、世を愛された」(*1)世の救済のためです。つまり、父なる神 はその存在そのものから生じた波動領域を超え隠れたままです。しかし美しき進化という甘さで万物を神の不滅なる至福の住まいにつれもどすため、あらゆる物 質、あらゆる生き物のうちに自らをキリスト意識として秘めました。創造にいきわたり遍在するこの神の存在がなかったなら、事実人は神の救済からとりのこさ れたように感じることでしょう───ほとんど気づかれることなく、そして甘く、神の救いは頭を垂れ膝を折る切なる祈りに訪れます。創造主、至上の祝福の主 が献身的な祈りから遠くへだたることはありません。

 聖ヨハネは言いました。「しかし、言は自分を受けにいれた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与え た」(*2)ここで神の子が「Sons of God」と複数形になっているのは、彼がイエスから授かった教えから、イエスの肉体ではなく、イエスのキリスト意識のみがひとり子であることを明確に示し ています。神のエネルギーを清澄な意識で受けとることのできる人々、もしくは妨げることなく映しだすことのできる人々は、誰しも神の子となることができま す。イエスがそうであったように、あらゆる物質のうちの神のひとつなる投射と一体になり、子、キリスト意識をつうじ(*3)、父、至上の宇宙意識へと上昇 します。 


 イエスの化身以前には、バガヴァッド・ギータの記し手、聖者ヴィヤーサがおり、ひとり子、神のひとつなる投 射、クタスタ・チャイタニヤ、キリスト意識でした。またスワミ・シャンカラ(およそ紀元七〇〇年、スワミという出家の伝統を設立した)、マハーアヴァ ター・ババジ、ラヒリ・マハサヤ、私のグル、スリ・ユクテスワ(*4)その他もキリスト意識を抱き、神のひとり子となりました。スピリットはキリストとし てのイエスを生じるにも、他の無力な命に限りある人々を生じるにも、分けへだてすることはありません。神性を伝えるイエスは、神により、何千もの人々につ くられました。そうして人々もまた、自然にキリストとして───神に動かされる人形として───地上でふるまうべく、あらかじめ運命づけられています。そ うした「キリストたち」は、弱さに満ち日々もがきつづける人々には理想にさえ届かないかも知れません。しかし、誘惑を制する自らの努力、神から授かった自 由意志による選択を適切に活用すること、強い信仰と科学的瞑想のテクニックをつうじての神のエネルギー、そうしたことからキリストとなる人がいたなら、そ の模範はもろく臆病で物質にひき裂かれた人々の胸に希望をかき立てることでしょう。  


 この世へのインドの希有の貢献は、太古のリシらの見いだした宗教科学───ヨガ「神との合一」───にあり、 これをつうじ、神学論的概念としてでなく、個々人の自らの体験として神を知ることができます。神の覚醒というヨガの科学は、人々のあらゆる病の根本である 無知、幻惑というおおいをうち砕くという意味において、人々にとって科学的な知識情報のうちでももっとも価値のあるものです。神の覚醒に堅く立脚したとき には、幻惑を超え、その幻想に従属していた限りある意識もキリスト意識へと高められます。  


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*1 『ヨハネによる福音書』 三・一六 講話一五参照。  
*2 『ヨハネによる福音書』 一四・二六(詳細についてはこの章でのちほど解説される)   
*3 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことはできな い」(『ヨハネによる福音書』 一四・六)つまり、誰しもまず自らを子、キリスト意識に合わせなければ父なる超越の神にたどりつくことはできない。   
*4 インドの霊性伝統の継承(グル・パラムパラ)において、パラマハンサ・ヨガナンダ直属の伝統は、マハーア ヴァター・ババジ、ラヒリ・マハサヤ、スワミ・スリ・ユクテスワにある。いずれのマスターも"Autobiography of a Yogi"(Self Realization Fellowship)に記されるように、そのまれなる霊性の高邁さで知られる。それぞれについては用語集参照。(出版社注)


=幻惑という暗闇が創造における神の光 をいかに隠すか= 

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(『ヨハネによる福音書』  一・五)  

 暗闇とは幻惑、無知のことです。サンスクリットの経典では、聖ヨハネの深遠な韻文の意義が完全に説明さ れています。インドのマスターらの光明とともに理解するなら、これらの真理が普遍的かつ科学的であることが分かるでしょう。大宇宙の働きとそのうちでの人 の位置づけを定義するのが霊性の法則であり、科学が見いだしてきたあらゆる発見の土台をなします。しかし科学者たちは、究極的な因より結果をより信頼し、 聖者らの霊性面での様々な言明はそのほとんどが迷信だとして切り捨てます。しかしじょじょに理解を広げていくことで、霊性の科学も物質の科学も共通の土台 の上にあるのが分かります。  
  
 幻惑の暗闇には、顕現される二つの相があります。ひとつはマーヤー、宇宙の幻惑の力、「無限なるものを限るも の」であり、もうひとつはアヴィディヤ、無知と個々人における幻惑のことです。  
  
 もしも象が空を飛ぶのが見えたという人がいたなら、幻想か妄想を見たのだと言われるでしょう。しかし当人に とってその知覚は本物です。マーヤーとは、誰もが五感で知覚する同一の幻惑、「現実」を信じるよう、神のかけた集団催眠です。アヴィディヤが、個々人に 形、体験、表現(この表現が、エゴ、「私である」という意識を支える)を与えます。  
  
 幻惑という暗闇の中で輝く光は神の光です。神が光です。『ヨハネの手紙 一』にこうあります。「わたしたちが イエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(一・五)  
  
 神の宇宙意識より生じる宇宙の知性的創造の波動のうちでは、具現化された創造において、まずはじめに神の二つ の表現が存在します。音(聖なるオーム、アーメン)と光(「初めに、神は天地を創造された。神は言われた。『光あれ。』」 『創世記』 一・一、三)で す。電子その他の分子の粒子よりさらに精緻な神の光の結合体が、物質を構成する要素です。大宇宙というスクリーンに映しだされたあらゆるものは、宇宙の光 と影、つまり幻惑という「暗闇」のそれぞれ異なる波動です。  
  
 神の光は宇宙の幻惑という暗闇のうちで輝きますが、それを認識する側の人間は、人を拘束する二つの病に苦しみ ます。五感という制約つまり個々人の幻惑という無知と、宇宙の幻惑の力、その二つが結びついたものです。  
  
 五感の制約により、人は物質の放射を完全には認識していません。見る能力が増したなら、あらゆる種類の光 ───原子、電子、光子、波動性のオーラ───を見ることができます。聞く能力が十分増したなら、原子の振動音、太陽の周囲を巡る惑星の音、宇宙のすみず みにまでとどろく星々の爆発音を聞くことができます。大宇宙が生命の脈動であることを知るでしょう。しかし、繊細なる五感という手段を用いて制約あるもの を感知するのをのぞいては、より精緻で高次の波動のいずれをも知覚することはできません。「暗闇」とはこの制約のことであり、意識に制限をもうける幻惑を もたらします。  
  
 太陽の光でさえ暗闇であると考えられます。太陽も二元性の物質界の一部であり、その輝きが偉大なる神の光を隠 しているからです。超越性の忘我の境地においてのみ、昼と夜、闇と光の二元ではなく、神の光のみが存在します。瞑想に目を閉じた暗闇のすぐ後ろに、神の光 が輝きます。  
  
 人は人生の相対性に目をおおわれています。物質的な光が無ければ暗闇は見えません。しかし、この暗闇を超えて この世に遍在する別の光があります。エーテル空間の背後にはアストラル界のはかりしれぬ光があり、全宇宙を支える生命力、エネルギーを供給しています。 (*1)アストラル・ライフトロンの光輝は、全宇宙をとりまく霊的なエクトプラズムです。神はこのアストラルライトより惑星と宇宙を創造しています。私は つねにこの光の中にいます───物理的な具現のすべてはこのアストラルライトより放射し、アストラルライトは光としての神の創造より放射します。   
  
 神を今ここで目にしたなら、全宇宙にきらめく膨大なる光として見えるでしょう。忘我のうちで両目を閉じると、 すべてがこの偉大なる光に溶解します。これは想像ではなく、存在というもののひとつなる真理を知覚したものです。この境地で目にしたことはすべて起こりま す。それが、あらゆる存在に遍在する光というものが真理であることの証拠です。  
  
 人はあまりにも幻想に酔い、至るところで振動する神の光を理解できないほどに、無知の暗闇が真の知覚をそこね ています。宇宙の幻惑(マーヤー)と、個人の幻惑と無知(アヴィディヤー)は、魂に生来そなわる神の遍在性の直感的な感知力をくもらせ破壊しています。瞑 想することにより、五感に頼ろうとする無知が遠のき、直感が優性となり、全宇宙の膨大な光としての自己が明かされます。  

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(1*) サンスクリット語のアーカーシャは、「エーテル」とも「空間」とも訳され、物質世界でもっとも精妙な 波動性の要素を指し示す。「エーテルのいきわたる空間は、天界、アストラル界、地上界の間の境界線である」パラマハンサジは言う。「神の生じたかそけきエ ネルギーのすべては光もしくは思念形でなりたち、エーテルとして具現されたある特定の波動のすぐ背後に隠されるのみである」  
 マサチューセッツ工科大学物理学教授のFrank Wilczek博士は"Physics Today"(January, 1999)で言う。「多くの定評ある論文、書籍でくり返されているように、アルベルト・アインシュタインは[エーテルを]歴史のくず箱に捨ててしまったと いう神話がある。…(略)…真理はそれとは対照的である。つまりアインシュタインはまず初めにエーテルの概念を純化し、それから確かなものに位置づけた。 二十世紀の進展につれ、基礎物理学におけるエーテルの役割は拡張されるのみであった。現在ではその名を変え少々形を変えたものの、物理法則全般においては 優勢である」  
 エーテルを───現在は量子的真空、場の理論、ゼロ・ポイント・フィールドと呼ばれる───研究調査する物理 学者らは、まさにこの宇宙を支えるのがひとつの巨大なる量子的真空であるエネルギーのうねりと理解する。 Lynne McTaggartは"The Field: The Quest for the Secret Force of the Universe"(New York: Harper Collins, 2002)の中で言う。「私たちの信じる確固とした不動の宇宙は、実のところ飛ぶように存在しては消えてゆく原子構成要素の粒子の煮えたつ大渦である。… (略)…大部分はアインシュタインの諸理論と、エネルギーと物質の相関性を示した有名な等式E=mc2におうが、あらゆる基本的な分子は他の原子構成要素 の粒子を介し、互いにエネルギーを交換しあっており、その粒子はどこからともなく現れ、瞬時にして互いを結びつけては消失させると考えられる。…(略)… このきわめて短い瞬間に出現する粒子は仮想粒子として知られる。…(略)…この仮想粒子は作用するたびエネルギーを放射する。ある電磁場での特定の処理に おけるゼロ・ポイント・エネルギーは想像しがたく小さい───光子の半量に相当する。しかし宇宙全体の多様な粒子のすべてがたえまなく出現し消失している ことを考えれば、はかりしれない膨大なエネルギーの源へとたどりつく。…(略)…すべては私たちの周囲の何もない空間の背後で、目立つこともなく静かに存 在する」  
 「事実ゼロ・ポイント・エネルギーとして知られる質量の計算によれば、1立方センチメートルの空間には、宇宙 に知られる全物質以上のエネルギーがあるとされる」とWill Keepin教授は"Lifework of David Bohm"(ReVision magazine, Summer, 1993)で言う。二十世紀最大の物理学者のひとりといわれるボームにとって「空(から)の空間にある膨大なエネルギーは、膨大でありながら隠されたまま の領域が存在することの理論的な証拠と見なしうる。…(略)…人が体験しているこの巨大な物理的宇宙は、複雑精緻な秩序の表面によせるさざ波にすぎない。 通常世界を構成するとみなされている物理的対象は、はるかに深くはるか高次元のこみいった秩序、根本的実在より展開された投影にすぎない」(出版社注) 
  

=あらゆる生きものの生命 宇宙エネル ギーの光=  

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(『ヨハネによる福音書』 一・九)  

 これは四節で次のように説明されています。「『言』の内に命があった。命は人間を照らす光であった」九 節はこれと同じことを述べたものです。実用書や娯楽文学では、くり返しは退屈であり、いらだたしく思考の流れをさまたげるものとされます。しかし霊性の書 物ではよくあるように、倫理的な理解と霊性における消化吸収にとっては、意味を明確にするためにも欠かせないことです。真理は息づく永遠性です。たびたび 接しその原理になじむことで、真理は支えとなる誠実な仲間になります。  
  
 神なる宇宙意識より流れる宇宙エネルギーの光は、発電機が街の電球に電流を送るように、あらゆる生き物に知ら しめ、その意識を照らす生命です。形ある無数のものからなる壮大な幻惑の世界と、そうしたすばらしき個々の肖像を支えているのは、この遍在する神の光で す。この光は無限に永続する真の光であり、一方人はある人生から次の人生へと、限りある存在として一時的にその光を借りているにすぎません。ヨガはこの光 にふれ、「すべての人を照らすまことの光」と人の意識との一体性を真に理解することで、不死性につながる方法を教えるものです。  

***

 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(『ヨハネによる福 音書』 一・一〇)  

 一読しただけでは「言」が意味するものは曖昧に感じますが、前の節とのつながりから、光を指しており、 「世」に遍在する神の創造的具現の力のことです。(*1)「世」とは、この小さな地球というだけでなく、宇宙全体をいいます。(聖書の訳で変更すべきもの のひとつであり、また他にも誤解されたものが多数ある)(*2)  
  
 「世は言によって成った」とは、全宇宙がこの宇宙の光より展開したことを示しており、時という岸辺の砂の一粒 にすぎないこの惑星のみを示すものではありません。  
  
 「世は言を知らなかった」つまりこの「まことの光」は、幻惑の背後にあり、命あるものの目から隠されていま す。  

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*1 多くの学者らが原典ギリシャ語の福音書で、中性名詞の「光(phos)」を指すのに男性名詞 「he/him」を用いていることに───文法的には中性名詞に男性代名詞はそぐわないにもかかわらず───疑問を抱いている。聖書の歴史家であり言語学 者であるCharles H. Doddは"The Interpretation of the Fourth Gospel"(Cambridge University Press, 1968)の中でこう言う。「二つの可能性があるように思われる。(a)問題となっている箇所は、実のところ男性名詞logosを指すものであり、ここで はlogosの光の面を指し示すと考えられる。(b)福音書の記し手にすでに化身という概念があり、化身としてのキリストを指し示すものである」数世紀に わたり教会の教条は後者の説を一般的なものとして発展してきた。しかしパラマハンサ・ヨガナンダの解説からも明らかなように、この文脈───創造における 神の波動性の宇宙エネルギーによる具現としての───「光」と「言葉(logos)」が十分に理解されたなら、疑問点は前者の可能性において解消される。   
(訳者注・ 引用箇所(『ヨハネによる福音書』 一・一〇)は英語では「He was in the world, and the world was made by him, and the world knew him not」であり、日本語訳聖書の「言」は英語訳聖書では「hi/him」で訳されている)  
*2 この福音書の原典ギリシャ語では、「世(world)」にkosmosが用いられている。キング王訳で は、kosmosの「宇宙全体の秩序」という広義の意味のかわりに「world」の訳語を用いている。
 

=幻惑により 物質 生命 意識 はス ピリットの完全なる投射ではない=

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(『ヨハネによる福音書』 一・一一)  

 神の宇宙意識より発する宇宙の光により作られ顕現された創造、万物(「自分の民」)に、この光はあまね く潜在します。  
 神は御自身を物質、生命、意識として対象化しました。よって物質、生命、意識はスピリットの直接的な顕現であ り、「自分の民」に投射されています。これは人の魂が生命を宿す肉体と心に具現されるのと同じことです。こうした道具としての肉体は魂に従属するものにす ぎず、事実魂の具現です。幻惑により肉体と意識に課された制約は、つねに完全なる祝福に満ちた魂としての真の自己を知るのを妨げます。むしろ心配や問題そ の他の幻惑による苦しみの数々にさらされている形、名、何らかの特徴が自分であると考えます。  
  
 よってこの節でいうように、神の魂は「自分の民」のもとへ来た、つまり物質、生命、人のうちで展開する神意識 として具現されました。「民は受け入れなかった」とは、宇宙の幻惑の力の介在により、物質、生命、心は神の潜在性を完全に真に映しだしまた表出(「受けい れ」)していない、ということです。 


=神の光を受けるべく意識を清澄にする 人は みなイエスのようになりうる=

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた。この人々 は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(『ヨハネによる福音書』 一・一二〜一三)   

 神の光は万物に等しく輝きます。しかし幻惑という無知により、万物はあるがままの光を受けとり反射していませ ん。太陽の光は石炭にもダイヤモンドにも等しく降りそそぎますが、ダイヤモンドのみがその輝かしい光輝を受け反射します。石炭のうちの炭素にはダイヤモン ドになる可能性が秘められます。高い圧力による変質を要するのみです。つまりは誰もがキリストになりえるということです───倫理的で霊性の生き方により 意識を清澄にする、とりわけ限りある命を不死性という魂の成就へと高める浄化の瞑想をすることにより。 

 神の子であることは、獲得される何かではありません。むしろ神の光を受け、そもそもの初め より祝福としてすで に神が自らに授けられている、そのことを真に理解するのみです。  

 「その名を信じる人には」神の名はそれだけでも献身をかきたて、神への想いへとつなぎ、それが救済の扉となり ます。神の名にふれただけで、魂は神への愛の炎をともし、信徒は解放への道を歩みはじめます。 


=「その名を信じる人」 聖なる宇宙の 波動との合一= 

 「名」のより深い意義とは、宇宙の波動(「言(ことば)」、オーム、アーメン)を指し示します。スピ リットとしての神が名の制約を受けることはありません。絶対なる者を、神、ヤハウェ、ブラフマン、アッラー、いずれで示そうと、神を表すものとはなりませ ん。万物の創造主にして父なる神は、永遠なる生命として万象をつうじて振動し、その生命は偉大なるアーメン、オームの響きです。この名がもっとも正確に神 を定義するものです。「その名を信じる人」とは、このオームの響き、聖霊のうちの神の声とひとつになった者の意です。この神の名、宇宙の波動を聞く者は、 神の子となる道にいます。この音のうちで、人の意識は遍在のキリスト意識にふれ、それにより宇宙意識としての神へと導かれるからです。   

 インド最大のヨガの解説者、パタンジャリ (*1) は、創造主である神をイシュワラ、宇宙の主、宇宙の統治者と記しています。「神を示すのは、プラヴァナ(聖なる言葉または音、オーム)である。祈りとして オームをくりかえし唱え、その意味を瞑想することで、障害は消失し意識は(外へとむかう五感を離れ)内にむかう」(ヨガ・スートラ 一・二七〜二九)

 人の通常の状態では、意識は肉体により凝りかたまっています。制約された波動の表れである人の肉体は、宇宙の 波動とは分かたれて存在しており、よって意識をも制約します。ヨガでは、拘束をおよぼす呼吸、鼓動、循環器系の波動から、肉体の原子と生命エネルギーより 発するより精妙な波動性の音へと意識を引きあげるよう、霊性の徒に教えます。セルフ・リアライゼーション・フェローシップの生徒に知られるオームを瞑想す る特別なテクニックにより、自らの意識が肉体の制約に限られていることを、呼吸、鼓動、循環器系の音より明らかに知ることになります。さらに瞑想を深めて いくことで、あらゆる原子と宇宙のエネルギーのきらめきより発する宇宙の音、偉大なるオーム、アーメンの声を聞くことができます。この遍在する音に耳を傾 け、その聖なる流れに溶けこむことで、肉体に閉じこめられた魂の意識は徐々に肉体という制約から遍在性へと広がります。知性の機能がその境界を超え、直感 という魂の全知の機能が、万物に行きわたる宇宙の波動のうちに遍在する神の知性、宇宙の知性につながります。

  
神が物質的、天上的、理念的に生じたあらゆる部分、あらゆる粒子より発する 聖霊である宇宙の音に耳を傾け一体 感をえることで、瞑想する信徒の意識は創造物のすべてを自らの宇宙の身体とし振動します。拡張された意識があらゆる波動性の創造物の中に定着するとき、遍 在するキリスト意識の存在を悟ります。そうして信徒はキリストのようになります。拡張されたセルフという乗りもののうちで、キリスト意識、「キリスト再 来」を体験します───内なるキリスト意識の存在、イエスが自らの肉体のうちで体験し、また弟子たちにも教えた普遍のキリスト意識です。(*2)

 信徒が普遍のキリスト意識と一体であると感じるとき、キリスト意識とは、父なる神の宇宙意識である自らの魂で あり、あらゆる創造のうちの投射であることが理解されます。あらゆる波動性の創造を超えて存在する宇宙意識(父なる神)が、あらゆる波動性の顕現のうちの キリスト意識(クスタス・チャイタニヤ)と同一にして唯一であることを理解します。イエスが「わたし(創造のうちのキリスト意識)と父(創造を超える神の 意識)とは一つである」と明言したように、信徒は究極的な歓喜のうちで歓びに浸ります。  

   
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*1 パタンジャリのいた時代は特定されていないが、多くの学者が紀元前二世紀であったとしている。彼の名高いヨガ・スートラは、きわめて広大にして複雑な神との合一の科学の神髄を凝縮したも のである───美しく も明快かつ簡潔な形で、魂を分断のないスピリットに結ぶ手法をおしすすめており、学者らは時代を超え、ヨガ・スートラをヨガにまつわる太古の著作の最高の ものであるとしている。  
*2 イエスがヨガの瞑想の科学を知り教えたことは、本書の講話各所でもふれられているように、高度に隠喩的な 聖『ヨハネの黙示録』および各福音書からうかがい知れる。 


=あらゆる魂は神の創造した神の子であ る=

 「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生ま れたのである」つまり「人の子」とは、人の意志と性交の結果、他の肉体より生じ、原形質と一族の血脈と種族の継続から生じた肉体を意味します。しかし「神 の子」というときには、人の意志、肉体、性交、血族、血統から生じたものでなく、人に生来そなわる神性意識、魂の意味です。よって真にあらゆる人が神の子 であり、神から生まれ、神によって創られました。

 幻惑という汚れのない、父なる神の明晰な投射、神の子の神髄が、肉体を自分と同一視し、源であるスピリットを 忘れることで「人の子」になりました。幻惑された人は時間という街道の物乞いにすぎません。しかし、イエスがキリスト意識の神聖なる子であることを感受し 映しだしたように、ヨガの瞑想により誰しも心を清め、神の光を受けとり反射するダイヤモンドの意識になることができます。

 キリストを感受するのは、瞑想により彼とふれあうことなく、教会の会員になり、外面的な意味でイエスが救い主 であると知ってなされることではありません。キリストを知るとは、目を閉じ意識を拡張し、魂の直感的な内なる光をつうじて集中を深め、イエスが抱いたのと 同じ意識に参与する、ということです。真に「彼を受けた」聖ヨハネその他の高度に進んだイエスの弟子たちは、宇宙のあらゆる粒子のうちに遍在するキリスト 意識としてのイエスを感じました。真のキリスト教徒───キリスト者───とは、魂を肉体意識より解放し、創造のすべてにいきわたる「キリスト知性 (Christ Intelligence)」に結んだ人のことです。  


=「言は肉となって」 物質として具現 される神性エネルギー= 

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子 としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(『ヨハネによる福音書』 一・一四)  

 想像もつかないほど強力な地震のような音の振動である「言(ことば)」、創造的エネルギーであり音であ る宇宙の波動が、大宇宙を具現するため創造主より生じました。宇宙の知性(Cosmic Intelligence)とともにいきわたるこの宇宙の波動が、精妙な諸要素───熱、電気質、磁気、あらゆる光線───へと凝縮されました。そしてさ らに気体(ガス)、液体、固体の原子になりました。「言は肉となって」とは、この宇宙の音を生じた波動性のエネルギーが物質へと凝縮されたことを意味しま す。(*1)  
 すべての物質は生命を宿しつねに新鮮です。石にさえ命があります。インドのカルカッタ、ボース研究所のチャン ドラ・ボース博士は、ブリキのかけらでさえ好ましい刺激には好ましい反応を、逆に好ましくない刺激には好ましくない反応をし、またその生命の波動を毒した り殺したりすることもできると証明する研究を行いました。  
 「わたしたちの間に宿られた」───人の肉体をふくめ物質的な創造へと顕現された宇宙の波動が、生命をとりま く目に見える世界を供給維持しています。  
  
 人は肉体、精神、魂の三層からなる存在です───自らのうち、宇宙のうちに讃えるべく存在する神性を完全に認 識しうる意識とエネルギーとの、独自の統合体です。魂、セルフ、神の姿(個別化された神の投射としての)であり、肉体と心を道具として用い、顕現されたこ の世において自らを表現します。肉体という道具は粗雑なレベルで活動する原子と、電磁波、知性をもった生命エネルギー(電子より精妙な生命エネルギー)の 集合体です。心理機能は知覚器官(知覚と行いのための)と、識別をする知性(知覚器官からの情報を解釈し、知識と行いについてどうするか決定する)で成り たちます。魂は肉体のうちに宿りつつ、肉体と心による体験を自らと同一視し、本質である神性を忘れています。かわりに肉体に制約されたエゴ、偽の魂の仮面 をつけています。ヨガの科学的瞑想のテクニックにより、魂は全知にして遍在のスピリットとひとつであるとの記憶をとりもどします。   
  
 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって」「わたしたち」とは、神の子である自 らをとりもどし、聖霊である宇宙の波動と生来そなわるキリストの知性───あらゆる創造のうちの父なる神のひとり子───を体験した、進化した魂のことで す。キリストの吹きこまれた言葉は、「恵と真理に満ち」る普遍の原理と正義という自然の法則、この世の秩序を支え、神、自然、同胞である仲間たちへの人の 責務を治める「真理」の豊かな宝庫です。  
  
 宇宙の波動の光、その壮大なる栄光は、神の生じる巨大な命の彗星のように流れ、物質をとりまき、その粗雑さの すぐ下に秘められます。「わたしたち」は宇宙の光の栄光を見、その宇宙の光つまり波動を導き、あらゆる物質に恩寵、美、真理を授ける神の知性の「独り子」 を見ました。「父の独り子」としての栄光がなければ、いかなる物質もありえません。  
  
 聖霊、聖なるエネルギーという創造のすべて、物質のうちの神の知性の投射であるひとり子は、万物の父なる創造 主である神より、恩寵、真理、顕現という栄光を受けています。  

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*1 およそあらゆる文化の創造の神話が、スピリットが物質世界を生じるメカニズムとしての音を示している。 Robert GassとKathleen Brehonyは、"Chanting; Discovering Spirit In Sound"(New York: Broadway Books, 1999)の中でこう言う。「新約聖書は言う。『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』ギリシャ語原典のlogos(ここで は「言」と訳される)が『音』の意味でもあることから、この有名な一節を次のように言いかえることもまた適切であろう。『初めに音があった。音は神と共に あった。音は神であった』」  
 GassとBrehonyはギリシャの哲学者ピタゴラスの 言葉を引用する。「石とは凍結した音楽、凍結した音である」近年天体物理学者らの集めたデータは、とりわけ太古の預言者らが見たことに関連づけられる。 "Mind Over Matter"(New York: Harcourt, 2003)でK. C. Coleは報告する。カリフォルニア工科大のAndrew Lange率いる宇宙飛行士チームは二〇〇〇年、「もっとも詳細なる宇宙最古の歌の分析を公表した。のどの奥からの低い振動音で、原子も星々も超える。マ ントラ『オーム』のような単純な音である。しかしその調和性の音のうちにあるのは、大宇宙の形、構造、誕生である」  
 "The Independent"(London, April 30, 2001)の報告では、これら調和性の「音が、ビッグ・バン後の一瞬、鐘のごとく鳴りひびい た。宇宙論者はこの音の微細な波紋が物質の『種』となり、ひいては星々、銀河、地球のような惑星といったものを形成したと信じている」   
 Cole、Langeと研究チームは、骨の折れるコンピューター解析をつうじ、ビッグ・バン後の数万年の間宇 宙の発した「音の映像」を作成した。データからは次のことが示された。その原始期、「まばらな原子の粒子とともにきらめく純粋なる光以外のものは何もな かった。この光と物質の流動体以外のものは何も起こらず、物理学者らのいうように、重力の井戸をばしゃばしゃと出入りし、流動体をある場所に凝縮させ、ま た別の場所へと広げた。太鼓を叩くように、重力の井戸に落ちる『液状の光』の凝縮が、宇宙学者Charles Lineweaverが『宇宙最古の音楽』と呼んだ『音の波紋』である」  
 "Scientific American"(July, 2000)は言う。宇宙が年を重ねるにつれ、これら音の波紋が「より大規模に発展し、宇宙を深いうなり声で満たした」ビッグ・バンから三万年後、宇宙は電 子と陽子が水素原子へと凝縮する───波動性の光(光子)と切り離される───ポイントまで冷却された。「光子は別の道筋へとむかい、宇宙は突如として沈 黙した」  
 K. C. Coleは記す。「その後が宇宙の歴史である。各粒子は原子、星々、人類をふくむその他すべてを形成すべく結びついた」(出版社注)   

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 「ヨハネは、この方について証をし、声を張りあげて言った。『わたしのあとから来られる方は、わ たしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわれわれが言ったのは、この方のことである」(『ヨハネによる福音書』 一・一五)   

 洗礼者ヨハネの意識は普遍のキリスト知性に合わされており、直感的理解により、キリスト意識を聖霊の創 造的な光のうちに顕現されたものであると言明したのであり、また神の意識において、イエスのうちの化身を見ました。この意識は、イエスがある特別な摂理を はたすために来たことから、イエスのうちの「優れた」意識でした。(*1)  

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*1 『ヨハネによる福音書』一・一五の内容は、二七、三〇でもくりかえされており、その流れ全体については講 話六で説明される。  

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 「わたしたちは、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。律法は モーセを通じて与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通じて現れたからである」(『ヨハネによる福音書』 一・一六〜一七)   

 創造にいきわたるキリスト意識の豊かさから、預言者らはみな感受しました───意識を合わせたなら、誰 もが制限されることなくこの意識を受けとります。より低き人も自らの能力に応じ、それぞれの善良さがその口となり、キリスト意識の永遠なる恩寵を飲みま す。「この方の満ちあふれる豊かさの中から」とは、心を浄化した人はいずれも遍在するキリスト意識を受けることができます。「恵みの上に更に恵を受けた」 つまり、人にあるあらゆる善良さにより、神の永遠なる善良さから感受します。 


=スピリットの豊かさはすべての魂に投 射される=

 スピリットの豊かさは、すべての魂に等しく投射されます。しかし神の子───その精神性を炭からダイヤ モンドに変えた人───は、神の存在の豊かさを受けとり反映します。至福のスピリットの遍在にして完全なる「豊かさ」、自らのうちの完全なる神の栄光の意 識が、神の子のうちにあります。「恵の上に更に恵を受けた」あらゆる善良さは神の光の輝きだす窓です。暗き心の表出はいずれも神の輝ける存在性を閉めだし ます。よって良きことを行うごとに、神の特別な計らいを受けとります。 

 「律法はモーセを通じて与えられたが、恵と真理はイエス・キリストを通じて現れたからであ る」これはユダヤ教 徒とキリスト教徒の間で論議の的となる部分です。しかしこの節は、イエスとモーセの間の何らかの霊性の程度の差を定義しようとするものではありません。論 点は、預言者らにはみな地上ではたすべき特別な役割があるということです。この聖ヨハネの言明は、十戒という形で神が人々に授けたモーセへの贈り物を示す にすぎません。十戒は永遠の真理であり、人の存在を倫理的に快適に、かつ理性において円満にする生命の普遍的な法です。しかし「戒」という言葉は、あたか も神は独裁者であって人は奴隷のような付き添いのようであり、十分な意味合いを伝えるものではありません。これら格言は、あるべき公正さの規範とすべきで す。自らのうちの神を明かすこれらの法にしたがわないのであれば、人は神との調和を離れ、自ら生じた幻惑の苦しみにおちいります。

 「恵と真理はイエス・キリストを通じて現れたからである」つまり、真理のすべて、普遍の法の背 後にある力はキ リスト意識より流れ、それが偉大なる預言者のすべてと同様、イエスのうちに顕現されました。永遠の法は、事実キリスト意識によりたもたれます。イエスは自 らのうちの普遍のキリスト意識をつうじ、その神聖なる源より流れる恩寵、真理、善良さを示しました。 


=自らをキリスト意識へと高めなければ 神は見えない=

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された のである」(『ヨハネによる福音書』 一・一八)  

 多くの人がこの節を誤解し誤って導かれます。神が認知できないものなら、神を知ることもまたできないは ずです。世を離れそうした神を瞑想する努力や祈りのいかにつまらぬものでしょう。この部分の意味は以下のようになります。  
  
 「いまだかつて、神を見た者はない(「時間」というマーヤーの相対性のもとにある人には無限なるものを悟るこ とができない)父のふところにいる神(ひとつなるものの多様を表現するため、いまだ創造されぬ神性エネルギーの奥深く「ふところ」より生じ、オームの波動 をつうじて階層性から成るあらゆる現象を導くキリスト意識の投射)、この方が(形をとり、顕現された)神を示されたのである」  
  
 創造を超越する目に見えぬ父なる神を顕現したのは、あらゆる創造のうちのキリストの知性です。キリストの知性 が存在しなければ、花に美しさを見ることも、赤ん坊の甘き生命力に愛で応じることもなかったでしょう。物質に投射されたこの「ひとり子」の知性が神の存在 を示さなかったなら、創造という広大なエーテルを超え、波動なき超越に住まう父なる神の気配を感じることもなかったでしょう。  
  
 「見た」という言葉には、このようなある種の条件がふくまれています。肉体の制約下にある人、意識が五感の知 覚に限られ、自らが命に限りある存在であるとの思いに制約された人───その人には神を見ることができません。しかし無限なるキリストの知性に意識を合わ せたイエスにとって、神はもはや理解しがたい神秘ではありませんでした。すべてを見る魂の直感的理解により、イエスは波動性の光により顕現された神をあら ゆる意味において見、また無形の絶対者である父を抱きとめた神聖なる一体のうちで見ることができました。通常の知覚からひとり子であるキリスト意識を感受 すべく意識を引きあげた人もまた、肉体の目でなく神聖なる理解において神を見ることができます。  
  
 意識がキリストの知性に満ちるとき、人はその知性をすべてのうちに顕現された神の投射として見ます。しかし、 神の意識を外界へと顕現する創造性の波動がマーヤーにとりかこまれると、顕現の神髄が隠されます。聖霊の純粋なる知性と、キリスト意識として本来そなわる 歪められることのない神の投射は、神の存在が至るところにあることを示し、創造され形あるものと神なる源とのつながりをたもち、究極的には神のもとへと引 き戻す、物質のうちで安定させ磁力的に引きよせるものです。このキリストの磁力的な性質が神の愛です───神の顕現したもっとも偉大なるものからもっとも 小さきものまでをも、永遠に世話し、見守り、神の加護の気配からさまよい出させることがありません。  
  
 この遍在の神の愛こそ、私がバガヴァン・クリシュナとイエス・キリストという東洋と西洋の化身を、クリシュ ナ・キリスト意識(普遍のクスタス・チャイタニヤ)の至上の顕れとする理由であり、彼らのうちには神の聖なる愛と慈しみの化身がもっとも高度に明かされて います。クリシュナの愛は、科学的な瞑想、正しき行い、自らを神の慈愛に投げだすような献身で近づくことで苦しみの海より救いだすヨガをこの地に授けまし た。イエスは病める人、求める人に仕え、また多くの人々の罪を軽減するために行った自らの身体の完全なる犠牲において、無限なる慈しみと許し、比類なき神 の愛を示しました。イエスの誕生の至上の意味あいとは神の許しです。人々がはびこる物質的快楽の数々を好み、神を遠ざけ神を忘れるという暗き深みに自らを 投げこもうと、最終的にはおのずと神へ戻る上昇性の進化をうながす、自らのうち、自らの周囲の神の愛に引かれ救いだされます。これがキリストであるイエス が宣言すべく誕生し、彼のうちに秘められ、その生涯に神性として顕現された、神の愛が世に伝えるメッセージです。 

















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講話二 イエスの無原罪懐胎と洗礼者ヨハネとの交流
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 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の司祭にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名 をエリザベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟(おきて)と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかしエリザベトは不妊の女だった ので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 
 さて、ザカリアは自分の組が当番で、紙の御前(みまえ)で祭司の努めをしていたとき、祭司職のしきたり によってくじを引いたところ、主の聖所(せいじょ)に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。 
 すると、天使が現れ、香壇(こうだん)の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲わ れた。 
 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは 男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人にな り、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊(せいれい)に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ る。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」  
 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたし は老人ですし、妻も年をとっています。」 
 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝え るために遣わされたのである。」 
 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと 出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。  
 やがて努めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリザベトは身ごもって、五か月の間身を隠し ていた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」 

───『ルカによる福音書』 一・五〜二五


=輪廻転生という宇宙の原理 いくつも の転生をへる魂の旅路= 

 「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ書  四・五)この旧約聖書の最後の言葉は、イエス・キリストの到来と、それに先立つエリヤの誕生を預言するものです。この預言は、「準備のできた民を主のため に用意」し、「エリヤの霊と力で主に先立って行く」という神の定めにより、洗礼者ヨハネによりはたされました。
 
 聖書の伝えるイエスと洗礼者ヨハネの関係は、グルと弟子───神を知った者と神を知りたいと求める者───の 間に形成される絆、聖なる伝統の光のもとで見なおすことで、新たなる神聖さをおびます。イエスと洗礼者ヨハネの関係は、以前の転生よりはじまった二つの神 なる魂の旅の続きでした。
 
 カルマの法(原因と結果、蒔くことともりとること)の作用をそなえる輪廻転生という宇宙原理は、ヒンドゥー教 徒、仏教徒、太古ド ルイドの司祭、エッセネ派やグノーシス派および初期キリスト教の神学論の多く で受けいれられてきた歴史ある教義です。何世紀もの間に、伝統教会が一般通念とするイエスの生涯と教えからはより分けられてきましたが、事実輪廻転生は、 イエス自身の漠然とした言葉をふくめ、旧約聖書と新約聖書のいずれにおいても随所に明示されます。(*1)たとえば、『ヨハネの黙示録』では「勝利を得る 者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない」(三・一二)とあります。ここでイエスは、魂が霊性修養により、物質との接触に より蓄積した人としての欲望の数々にうち勝ったとき、その魂は宇宙意識のついの住まいの不滅の柱となる、と言うことで、明らかに輪廻転生に言及していま す。スピリットのうちであらゆる欲望が満たされるのを知ったとき、その魂は満たされえぬ欲望の数々による輪廻転生のカルマの作用でふたたび地上に生まれる ことはありません。(*2)
 
 あらゆる魂は神より生じ───純粋なるスピリットより個別化した光として───、神の授けた自由意志を用いる ことで、本来の完璧な姿に戻るという進化をします。愚者も賢者も、この探求をはたすため、公正にして愛情深き神の手より等しくその機会を要します。たとえ ば、成長することなく死した赤ん坊は、救いを授かるに十分高潔になる、もしくは身を滅ぼすほどの悪人になるため、自由意志を用いるという可能性をえられま せん。自然の法は、時機にそぐわぬ死の原因となった過去の行い(カルマ)に働きかけ、解放へと達するに十分な善行を行うべく自由意志を用いる機会を与える ため、その魂をふたたび地上に戻します。
 
 通常魂は、数々の地上的な欲望と過去の行いの作用により輪廻転生を強いられます。何度もの転生の学びにより叡 智にたけた偉大なる魂は、カルマをはたすためという部分もありますが、原則的には、神の子として気高き行いをし、天の父の祝福の住まいへの道でさまよえる 神の子どもたちの啓示となるため地上に来ます。限りある命の学校を卒業し、宇宙意識の不滅性へと入ったマスターや預言者らは、あらゆる魂をスピリットのつ いの住まいへと導くため、神の統治計画の全権大使として仕えるため、自由意志により神のために転生します。(*3)

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*1 この講話の後ほどと、次の講話で引用される。索引の「輪廻転生」参照。 
*2 カルマの法とその結果、輪廻転生については、聖書の様々な節で示される。たとえば、「人の血を流す者は、 人によって自分の血を流される」(『創世記』 九・六)人を殺した人がみな「人により」殺される、その反作用は確実に、多くの場合一度以上の転生を要す る。 
 「初期のキリスト教教会では、祝福されしオリゲネス、アレクサンドリアのクレメンス(いずれも三世紀)、聖ヒ エロニムス(五世紀)をふくめ、教父らの多くの説明する輪廻転生の教義が受けいれられていた。そう した教義は五三三年、 第二コンスタンティノポリス公会議ではじめて異端とされた。当時多 くのキリスト教徒 は、輪廻転生の教義はあまりに時間的、空間的な余剰を与えてしまい、救済のための努力をするよううながすものではないと考えた。しかし隠された真理は思い がけず過ちの温床となってしまった。『一度の生涯』を神を求めることに活用することなく、この世を享受することに費やす───まれなる機会にしてすぐにも 失われてしまうのに! 意識的に神のひとり子としての地位を獲得するまで、人は地上に転生しつづけるというのが真理である」 ───"Autobiography of a Yogi"(Self Realization Fellowship, 1974)(『あるヨギの自叙伝』(森北出版 一九八三)) 
*3 解放に至った聖人、もしくは解放間近の聖人の聖なる使命のための転生は、『エレミヤ書』の神の神託に暗示 される。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者とした」(エレミヤ 書 一・五)


=イエスと洗礼者ヨハネに輪廻転生の光 を当てる= 

 私のグル、スワミ・スリ・ユクテスワ、普遍的な霊性理解をそなえるヴェーダの叡智のマスターである彼よ り、私はキリスト教の聖書について、新たなる認識を授かりました───若い頃の私は、改宗を目的とした伝道師らの理不尽な意見に気をそがれ、ごくわずかの 興味関心しか抱いていなかったと告白します。師が母国より受けついだヒンドゥー教の遺産や秘儀的な奥深さに親しむのと同様、キリスト教の聖典について説明 するのに耳を傾けるうち、私は境界性も宗教的な分断もない真理のうちで、すばらしき拡張を体験しました。スリ・ユクテスワはパラムグル、マハー・アヴァ ター・ババジに乞われ、ヒンドゥー教とキリスト教の各経典を統合するすばらしく簡明な分析の書『聖なる科学』(*1)を記しました。その任務はのちの私の 使命───バガヴァン・クリシュナの授けたヨギの科学と、キリスト教の教えの間の一致を示す───の種となりました。よって私は早くよりキリストの生涯に しばしば想いをはせており、彼の気配は私にとって真にリアルな体験でした。
 
 誰しも現在の性質や条件をそなえるようになる前に数々の生涯をへていることから、イエスはキリスト意識に至る ため、どんな転生をへたのだろうというつまらぬ興味がたびたび私の心に浮かびました。一般の物質思考の人の意識は、欲望快楽の数々を満たすことをふくめ、 飢えや渇き、肉体の要求を満たすことに限られます。知性的な人は、心、命、人の存在をとりまく状況に関わる叡智の洞窟奥深くへと分け入ります。霊性の人 は、何世もの瞑想と、万物への愛を拡張させたことで、自らの意識をすべてにいきわたるキリスト意識に結びます。よって人イエスも、イエス・キリストとして の意識の拡張と高き位置にたどりつくまでには、人として学び瞑想した転生をへているはずです。
 
 長い間、私はイエスのきわだつ転生をつきとめようと、スピリットのうち深くへと分け入りましたが───およそ えられるものはありませんでした(今ここで有益となることでなく、かつての栄光、かつての重大な過ちに不必要で不適切な関心をよせるのであるかぎり、神は 魂の過去世への神秘の扉を固く閉ざします)。ある日、キリスト教の聖書を手に、深い思索において心より祈りました。「父よ、イエス・キリストがイエスとし て地上に転生する以前、彼がどんなであったか教えてください」思いがけず、その瞬間父の静かなる遍在の声が、耳に聞こえる言葉として具現されました。「聖 書を開け!」
 
 神の命にしたがい、私の目にまずとまったのは、『列王記上』一九節一九章でした。

 エリヤはそこに立ち、十二くびきの牛を前に行かせて、畑を耕しているシャファトの子エリシャに出 会った。エリヤはその十二番目の牛とともにいた。エリヤはそのそばを通りすぎると、自分の外套を彼に投げかけた。 

 そうして私は、イエスが洗礼者ヨハネについて語るのを思い出しました。「言っておくが、エリヤは既に来 たのだ。…(略)…そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」(『マタイによる福音書』 一七・一二〜一三)(*2)イ エスとして転生したのはエリシャであり、彼は過去世でのエリシャとエリヤとしての関わりから、洗礼者ヨハネのうちに自分の師を認識することができました。 のちこの講話集でも示しますが、イエスは様々な箇所で洗礼者ヨハネについて重要な言及をし、また敬意を示しています。イエスが彼に洗礼を求める場面、女性 より生まれし(これにはイエスもふくまれる)最も偉大なる預言者としてヨハネを讃える場面、イエスが山上で変容し、モーセとエリヤが姿を顕し、のちエリヤ を洗礼者ヨハネとした、など。
 
 洗礼者ヨハネもイエスも、エリヤとエリシャとしての先の転生で完全なる解放をえていました。エリシャであると き至上の目的に達したことから、イエスがそれ以前に誰であったかは重要ではありません。神との契約により、エリシャは霊性の覚醒という外套を投げかけたエ リヤをつうじ成就に至りました。

 神の御手がエリヤに臨んだので、(『列王記上』 一八・四六)

 また神はエリシャに洗礼を授けるようエリヤに指示しました。

 主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたな ら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。』(『列王記 上』 一九・一五〜一六)

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*1 "The Holy Science"(Self Realization Fellowship)(『聖なる科学―真理の科学的解説』森北出版 一九八三) 
*2 旧約聖書の何人かの人物の名前は、新約聖書でヘブライ名でなくギリシャ名で記される場合には変更されて登 場する。Elijah(エリヤ)はElias、Elisha(エリシャ)はEliseus、Isaiah(イザヤ)はEsaiasなど。同一人物に二つの 名を用いての混乱を避けるため、本書では旧約聖書の名を使用する。(出版社注)
  

=エリシャ イエスの過去世でのグル=

 このように、神がエリヤにエリシャのグルになるよう直接任命しました。グルの中のグル、至上の訓戒者で ある神は、つねに弟子が指示と解放を受けとるめの経路を示します。エリヤが「十二くびきの牛」をひくエリシャを見たのは重大な象徴です。のちイエスは、多 くの魂のうちで神の叡智を耕し救済をもたらすため十二人の使徒らとともに人の意識という凝りかたまった土壌を耕すことになります。このできごとにより、神 はのちのエリシャのめざましい世界的な使命についてと、エリシャがたぐいまれなる弟子であり、神の摂理のために選ばれたことをエリヤに示しました。
 
 「外套を投げかける」ことそれ自体に誰かを変容させる力はありません。しかし、高度に進んだ弟子の意識に自己 覚醒を意味する師の衣を着せるのは聖霊による洗礼です。エリヤからイニシエーションを授かり、エリシャは言葉も議論も説得もなく、以降忠実にグルに続きま した。
 
 神がエリヤの地上での転生を終わらせるときが近づき、この偉大なる預言者はエリシャに言いました。

 「わたしがあなたのものとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさ い。」 
 エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。 
 エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。私があなたのもとから取り去られるのをあなたが見れ ば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」 
 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬にひかれて現れ、二人の間を分けた。エリヤ は嵐の中を天に上って行った。 
 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリ ヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんでふたつに引き裂いた。 
 エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちて来た エリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができ た。 
 エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、 彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。(『列王記下』 二・九〜一五)

 よって、イエスとして「霊の二つの分」をたずさえ、おおぜいの弟子に救済をもたらし、十字架刑という至 上の試練をもすべてを許す神聖な愛で超えるべくやってきたのはかつてのエリシャでした。エリヤとエリシャはいずれも様々な奇跡を行い、病人を癒し、ごくわ ずかの食料から多くを生じ、死人をよみがえらせることができました。カルマの法におうじ、イエスはエリシャの転生でそなえた偉大な力を子どもの頃よりたず さえていました。霊性を高め不死性に至ることで、イエスが自らの死した肉体という殻に命を吹きこんだように、旅だったエリシャのくずれゆく骨にもまた蘇生 の力がとどめられていました。

 エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に進入して来た。人々がある人を葬 ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ちあがった。(『列 王記下』 一三・二〇〜二一)

 エリシャの魂は、自らの肉体を光り輝くエネルギーに変容させ、嵐の中を「火の戦車で天界へと上昇」した のち(*1)アストラル界にとどまり、イエスとして転生した弟子のエリシャがはたすべく定められた神の使命を目撃するため、洗礼者ヨハネとしての転生の時 機を待ちました。(*2)スピリットのうちでひとつであったエリヤとエリシャは、霊性においては平等です。しかし洗礼者ヨハネとして戻ったエリヤは、人の 霊性における運命に革命をおこすという神の望みをはたすため、「霊の二つの分」をそなえて転生した弟子イエスと出会い支える、そのことだけのためにヨハネ としての転生という重要な役割を謙虚にひきうけました。イエスもヨハネも神の意思をはたそうとしていました。師であったエリヤにとって、弟子が神の摂理を 実行し地上で救い主として讃えられるのを目撃し、またその道を整えようと望むのは自然なことです。気高き父が息子の栄光に嫉妬を抱くことはなく、むしろ息 子がこの世において自分の名声をもしのぐときには誇りに思います。洗礼者ヨハネはより小さき役割を担いましたが、不正、投獄、真理のための絞首刑といった 試練は、十字架にかけられたイエスのはたした貢献にも等しいものです。


=前世において示されたイ エスの使命と奇跡=
 

 この二つの魂が地上で母親の子宮に宿り、洗礼者ヨハネとイエスとしての転生をかたどった瞬間から、神の 計画は明らかでした。子宮にいるときよりすでに彼らの魂は互いの存在を認め、永遠の忠誠と愛で交流していました。強制的な転生の循環を破った高度に進んだ 魂は、通常ある転生から次の転生を分断する忘却を体験することがありません。彼ら目覚めた魂は、そう選択するなら、死と死後および次の転生の間───母親 の子宮の中でさえ───意識の連続性をたもつことができます。

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*1 「高度に進んだヨギには、細胞をエネルギーに変えることが可能である。エリヤ、イエス、カビール、その他の預言者らは、クリヤ・ヨガもしくは同様のテクニックを用いたか つてのマスターであ り、それにより肉体を意のままに物質化、または非物質化させた。」("Autobiography of a Yogi"(Self Realization Fellowship) 二六章より) 
*2 イエスと洗礼者ヨハネは霊性においてだけでなく、外見においても以前の転生を映しだしている。 "Smith's Bible Dictionary"によれば、「エリシャはおよそあらゆる点でエリヤとほぼ完全に対照的である。…(略)…エリヤは真に砂漠のベ ドウィン族の子どもである。彼が街に入ったのは、炎のメッセージを伝えて去るためだけである。一方エリシャは文明の子であり街の住人である。そうした特徴 は外見にも一致する。それらに言及する部分はわずかだが、エリシャの衣は一般的なイスラエルの衣服であり、髪は後ろに流れており、それとは対照的に、エリ ヤはほつれ髪であった、という部分を見つけることができる。(出版社注)
 

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフ という人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵 まれた方。主があなたと共におられる。」 
 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 
 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ご もって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださ る。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんの に。」 
 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、 神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神に できないことは何一つない。」 
 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使 たちは去って行った。 
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そしてザカリアの家に入ってエリ ザベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中 で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶 のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 
 …マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

───『ルカによる福音書』 一・二六〜四四、五六
 

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一 緒になる前、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切 ろうと決心した。 
 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れ なさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからであ る。」 
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見 よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

───『マタイによる福音書』 一・一八〜二三
 

=無原罪懐胎の形而上学的真理=  

 イエスの誕生と妊娠はかなりの議論となるテーマでありつづけてきました。イエスの妊娠は自然にしたがう もの、それとも超自然的なものだったのでしょうか。本当に無原罪懐胎だったのでしょうか。神話、事実、それとも信仰の問題なのでしょうか。人は神のなされ たことの符号を読み解こうとするあまり、人々の間で神のなされた御業を讃える歓びをそこねています。パンで飢えを満たすのに、小麦の分子生物学まで完全に 理解する必要がありましょうか。生命力を与える太陽の光とぬくもりを受けるのに、天文学者にならなければならないのでしょうか。神の神秘の究極的な理解 は、生命という書物を読む準備の整った人には禁じられることなく、いついかなる方法であれ、主はそのページを開いてくださいます。
 
 神は大いなる宇宙の計画者です。選りぬきの最たる人々による秘密会議であれ、時間の攻撃、文化文明の変化によ る遠慮のない否定に耐えうる普遍の法を完全にしくことはできません。しかし神は厳密厳格ではありません。法───善いもの、悪いもの───の操作により、 万華鏡のような多様さで人々に自由を与えます。神御自身、人々の一般的な通念を混乱させる神なる発案により、ときおりわが子らを驚かせるのを愉しみます。 狼狽する人々は、ありえないことを一歩引いてあざ笑うか、敬意とともに両手を合わせその奇跡を認めます。
 
 大自然においても、神は着実な方法で御業を演じます。ある種の植物は、おしべめしべの受粉なくして成長、繁殖 しません。一方、ゼラニウムのような植物は、切りとられた小さな茎から勢いよく増えていきます。同様に、動物界も二性を介して繁殖してきましたが、巻き貝 の中にはオスとメスが交わることなく、きわめて独自な種の繁殖を行うものがいます。科学研究所では、カエルは雄の精子がなくとも雌の卵子を刺激することで 繁殖する、ということがありました。(*1)
 
 創造は創造であり、新たに何かを形成することです。神御自身の命であれ、人が神による自然の法にのっとったの であれ、神の創造的力により何かが存在することになるという意味においては、つねに「無原罪」といえます。最高次の形で実際に無原罪がなされた最初のもの は、神がアダムとイブ───人間すべての象徴的両親───を創ったことでした。神は原初の男性女性を性の交わりによっては創造しませんでした(木と種どち らが先かといえばもちろん木であり、のちにそれ自体で種を産じる能力をそなえました)。人は長期にわたる動物の進化のプロセスの結果えられた生物学的、解 剖学的機能にそい形成されましたが、より低き生物の所有しない独自性をそなえ神に創られました。神性意識と魂の様々な力をあますことなく表現する能力を与 える、脊柱と脳にあるすでに目覚めた命と意識の霊性センターです。神は特別な創造活動により、直接的な具現という無原罪の方法でアダムとイブの肉体を創 り、この原初の存在には、神と同じように自分たちの種を繁殖させる能力をそなえました。ヒンドゥー教の経典でも、神性意識をそなえた原初の存在は、心の力 により子孫を創造したとして、無原罪懐胎について言及しています。(*2)性差のない陽性、陰性の波動の表現である男性女性は、神が聖書のアダムとイブを 創造したように、それぞれ別の男性女性を創ることができました。
 
 ことのはじめ、象徴としてのアダムとイブの生殖器官はまったく顕著なものではありませんでした。神は「園の中 心に生えている木の果実」(『創世記』 三・三)(*3)は食べないよう警告しました。この果実は肉体という園の中心にある性的感覚のことです。アダムと イブが誘惑に屈しその果実を食べたとき───肉欲的に抱きあい───霊性意識のエデンより「追放」されました。その「堕落」により、肉体と自己の同一視と いう低き状態へと下降し、神性を認知する魂意識と、脳脊髄の精妙なセンターの機能を───無原罪による繁殖の能力もふくめ───失いました。彼らの生殖器 官はより低き動物界の形式へと進化発達しました。陽性においてはより積極的な人の形、男性器が登場し、陰性においてはより受動的な女性器が発達しました。 (*4)
 「堕落」以前に神がアダムとイブに授けた神性と創造エネルギーは、どの人の魂にもなお存在します。神なるエデ ンが回復されるときとりもどされます。太古インドのより高き時代、リシたちは心による創造の力をそなえていました。意思の力により、この世に何であれ物質 化することができました。いずれの場合においても、あらゆる物質にみなぎるのは宇宙の波動(プラクリティ、聖霊)です。波動のうちの神の意思、神の知性と 自らを結んだキリストのような存在の意志の力により、この波動が意図的に用いられました。また神御自身が、神の御意思をはたすのに、直接的もしくは天使ら の存在をつうじ、この聖霊の力を媒介としました。
 
 聖書には、神はイブを造るのにアダムのあばら骨をとったとありますが、「あばら骨」とは波動のことです。男性 の創造(創造性の波動における陽性もしくは男性性の具現)は、理性を高位に感情を潜在的にした神の意識で成りたち、神はそれと同じ波動の力で、次に女性 (創造の波動における陰性もしくは女性性の具現)を感情を高位に理性をより潜在的に創造しました。
 
 この資質の優性に応じ、神は性差のない魂を入れる肉体に違いをつけました。神の計画では───創造が陽性の力 と陰性の力の相互作用であることから───神の授けた男性と女性の資質は互いに均衡をとりあうものです。人のうちでこの波動が均衡状態になると、その男性 もしくは女性は、神の完全なる均衡としての魂本来の神なる資質を具現しはじめます。
 
 多くの聖者が自然の法にしたがい生まれ、また無原罪により生まれた聖者もいます。解放に達した偉大なる者は、 スピリットのうちにその個別性をとどめ、神より救い主として世に戻るよう要請され、自然な出産もしくは無原罪懐胎いずれかで物理的肉体をとります(より高 き時代には、直接的な物質化をすることもありました───光明なき時代の目にふれることはないものの)。

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*1 巻き貝のコモチカワツボ(potamopyrgus antipodarum)という種がニュージーランドの淡水湖に生息する。また一九五一年には、カエルの胎芽細胞の小核を無精卵に注入しての繁殖にはじめ て成功した。しかしこの実験は形幼生に成長させる段階までしか行われていない。 
 『ナショナル・ジオグラフィック』二〇〇二年九月二六日号は報告する。「デトロイト、Bell Isle水族館のシロホシテンジクザメが、六月に二匹の赤ん坊を出産したことで飼育係を驚かせた。何に驚いたのか? 処女懐胎だったのだ。このメスザメは 六年間オスザメに近づくこともなかった。…(略)…この出産により、サメの種が卵子の受精をともなわない単為生殖での繁殖が可能であるかどうかについて、 科学者らの間で論議を呼んだ。単為生殖は巻き貝のような無脊椎動物によく知られるが、高等脊椎動物ではまれである。『単為生殖は両生類の多くで報告されて います』Bell Isle水族館の管理人Doug Sweetは言う。『蛇では少なくとも五種か六種、サンショウウオ、トカゲ、七面鳥の繁殖でも知られることです』」(出版社注) 
*2 聖書の『創世記』は初代の人間の没落に焦点をあてるが、ヒンドゥー教の経典では、地上の最初の存在を、自 ら有体の形をとり、自らの意志をつうじて神の命により神と同じく子孫を創ることのできた神性存在として讃えている。そうした記述のひとつは古典プラーナの シュリーマド・バガヴァータにあり、肉体の姿をした初の男性女性、ヒンドゥー教でいう「アダムとイブ」は、スワヤンブーヴァ・マヌ(「創造主より生まれし 者」)とその妻シャタルーパ(「千の姿をもつ者」)であり、創始者プラジャーパティらと結婚したその子どもたちは、人類の始祖となるため姿をとった完全に 天界の存在だった。このように、神の創った人の形へと入った原初の存在は、プラクリティが人の到来のため地上を整えたさい、創造において上昇性の発達段階 をへた魂、もしくはこの世での人のはじまりとなるため特別に地に降りたった原始的魂であった。いずれの場合も、原初の人間は魂の完全性を表す能力を独自に そなえていた。霊性の視野「エデン」をそなえたいわば「アダムとイブ」とその子孫らは、地上での祝福多き旅を終えたのち、スピリット、天界の領域に戻っ た。楽園を追われた人間とその子孫は、欲望に満ち、五感を自らとする命に限りある人間となるべく運命づけられ、輪廻転生の循環にからめとられた。  
*3 「神は女にむかって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む』」 (『創世記』 三・一六) 
*4 『創世記』のアダムとイブの霊性における意義については、講話七でより詳しく説明される。


=ブッダその他のアヴァターも無原罪で 生まれた= 

 生殖による創造には、両親の利己的な性衝動がともないます。よってなかには、無原罪という純粋なるプロ セスによる懐胎を選択する聖者もいます。無原罪懐胎によりイエスが生じたのもこうした事実によります。「恵まれた方」であるイエスの母マリアは、聖霊であ る宇宙の波動に満たされました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」キリスト意識としての神の投射に満ちたこの神聖なる創造性の波動 が、マリアの子宮、卵子に入り、無原罪により、個別化されたキリスト意識であるイエスの魂の宿る生殖細胞を創造しました。この細胞のもとが、イエスの魂に そなわる型にそい、キリスト・イエスとして誕生する肉体へと成長しました。これは神話ではありません。ゴータマ・ブッダ(その他のアヴァターたち)も同じ ように生まれています。彼の母親は、スピリットが自分の肉体に入るのを見ています。ジャータカ(太 古の仏教経典)の中で、インドの古典的寓話として語られています。

 宮殿の長いすに横たわり、王妃は眠りに落ち次のような夢を見た。 
 四人の守護天使が訪れ、王妃を長いすごともちあげると、ヒマラヤの山に連れていった。…(略)…王妃に 天界の衣を着せ、香水をふりかけ、天の花で飾った。そこから遠くないところ、銀の山に金の宮殿があった。天使たちは、そこで頭を西にして天界の長いすをす え、王妃を横たえた。 
 その頃、美しき白い象(*1)の姿をしたのちのブッダが、少し離れた金の山を歩いていた。その山を下 り、象は北から銀の山に登り、銀色の鼻で白い蓮の花を摘み、高らかにいななきながら金の宮殿に入っていった。母となる王妃の長いすを右にみて三度まわり、 王妃の体の右側を叩きその子宮に入った。夏日祭におきた懐胎である。 
 翌日目を覚ました王妃は、国王に夢の話を伝えた。国王は六十四人の優れたブラーフミンらを呼び… (略)…夢のことを話しどういうことか尋ねた。 
 「ご心配入りません、偉大なる国王様!」ブラーフミンらは言った。「王妃の子宮に赤ん坊自ら宿られたの です。…(略)…息子が生まれましょう。その子は、家長として生涯を送れば世界的な君主になりましょうが、家長としての人生を去り世俗から隠遁したなら、 人々の罪、この世の愚かしさを消失させるでしょう」(*2) 

 イエスの懐胎と出産の神秘には、大宇宙の形而上学的象徴性があります。キリスト意識という化身は、聖母 マリアをつうじ無原罪で降臨しました。それと同じく、普遍のキリスト知性は、父なる神をつうじ、純粋なる波動性の創造(「大宇宙の聖母マリア」)という宇 宙の身体のうちに生まれた、つまり投射されました。

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*1 純粋なる神の叡智と高貴さの象徴。バガヴァッド・ギータで主クリシュナは言う。「雄馬の中では乳海より生 まれたウッチャイハシュラヴァ、象の中ではインドラの白 きアイラーヴァタ、人の中では皇帝と して、私を知れ」(" God Talks With Arjuna: The Bhagavad Gita: Royal Science of God-Realization." 一〇・二七)象は叡智の象徴。意味深いことに、アイラーヴァタは「西」の護り主とされる(人の肉体では西、つまり額 の叡智のこと)。インドラ[「神々の中の神」]という言葉は、五感(インドリヤ)の征服者の意をふくみ、叡智は五感を征したヨギの乗りものである。神は、 確かに、五感を征した者の大いなる叡智のうちに顕現する。 
*2 "The Harvard Classic, Volume45, Part3, Buddhist Writings" trans. Henry Clarke Warren(New York: Collier, 1909)より引用。
  

 さて、月が満ちて、エリザベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリザベトを大いに慈しまれ たと聞いて喜び合った。 
 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところ が、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 

 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に 何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは 口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が およんでいたのである。 

 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を 訪れて解放し、…(略)…幼子よ、お前はいと高きからの預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからで ある。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我ら の歩みを平和の道に導く。」 
 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

───『ルカによる福音書』 一・五七〜六八、七六〜八〇



















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講話三 イエスの生涯と三博士の礼拝
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冒頭 聖書引用 

イエス誕生の祝福 瞑想によるキリスト意識との一体
東方の三博士 イエスとインドとの関わり
霊性の目 真の「東方の星」
幼子イエスに顕現された無限の力

 



 
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシ リア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおのの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋 であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためで ある。
 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉 桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群の番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の 栄光が周りを照らしたので、彼らはひじょうに恐れた。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い 主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これがあなたがたへの しるしである。」
 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあ れ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

───ルカによる福音書 二・一〜一四
 

 イエスは、ヘロデ王の時代(*1)にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の 学者らが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たの で、拝みに来たのです。」
 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律 法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前 はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(*2)
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、 その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まっ た。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳 香、没薬を贈り物として献げた。
 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って 行った。

───マタイによる福音書 二・一〜一二
 
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*1 聖書以外の歴史的な記録によれば、ヘロデは紀元前四世紀になくなったとされる。このことから、近年の学者 の多くが、イエスの生涯を紀元前七世紀から紀元前四世紀の間としている。
*2 この預言は『ミカ書』(五・二)に言及したもの 

[ 3-モクジ ]

 


  
イエス誕生の祝福 瞑想 によるキリスト意識との一体

 ときとして神は素朴で純粋な心のもちぬしに、より多くの人々へにとって大切なメッセージやできごとを示 します。こうした啓示はつぶさに記録または証言されています。たとえば、聖ベルナデッダはルルドという奇跡的な癒しの泉へと導かれ、以来何世代もの人々の恩恵となりました。三人の農民の子に伝えられたファティマの預言は、天が開き太陽が地にむかい突進するという現象を何千人という 人が目撃したことで、確かなものとされています。私個人が実際に見たひとつは、バイエルンの農民、聖テレサ・ノイマンで、キリストの生涯をヴィジョンで再 体験し、自らの身体にキリストの十字架刑の傷を示しました。おそらく主は、こうした驚くべき知らせは、一般の人々のひとり(もしくは複数)に伝えることで より受けいれられると思われたのかもしれません。救世主じみた野望を抱く自画自賛の熱弁家らは、およそ信頼に値しないメッセージを伝えるものです。私の知 るかぎり、自らそう公言していようと、利己的な人に神の言葉が託されたことはありません。
 
 聖書の伝えるところでは、はじめての「クリスマス」の晩、貧しき羊飼いがイエス誕生の予兆を目にするという祝 福に授かりました。神と天の大軍たちは、人類の運命に力を及ぼすよう定められた偉大なる者の地上への化身を祝いました。イエス降臨への天の歓びであり、羊 飼いに目撃されました。より精妙な波動次元を粗雑な肉体の感覚器官で認知することはできません。しかし神の恩寵により物質のヴェールが開かれると、直感的 認知力という魂の神聖なる霊性の両目は、天界と天の者たちをのぞき見ることになります。
 
 イエスが地上に降りたったさいの栄光には、その象徴的意義に関し欠けたところがありません。丘にいた羊飼いの ように、人の信仰心、献身、瞑想という羊飼いも啓示の光を浴び、謙虚な心の信徒は自らのうちに新たに生まれる無限なるキリストの気配を見ることになりま す。
 
 神と神に仕える者による聖なる魂の降臨への祝福は、その魂の誕生のときばかりでなく、それにつづく年ごとの誕 生記念日にも示されます。毎年クリスマスの時期、天界より地上に放たれるキリストの愛と歓びは、ふだんにも増して強いものです。エーテルはイエスが誕生し たとき地を照らした無限の光に満たされます。献身と深い瞑想にある人々は、不思議なほどはっきりと、キリスト・イエスのうちにあった遍在意識の変容の波動 を感じます。
 
 ただ物質主義的なやり方のみでイエスの誕生を祝すのは、彼の生涯と彼の説いた神の愛、神との一体という不滅の メッセージを冒涜するものです。私は西洋で、この偉大なるアヴァターの誕生記念祭への、浅薄でしばしば不適切ともいえる祝賀を目にしたことから、セルフ・ リアライゼーション・フェローシップでの霊性におけるクリスマスの祝賀をはじめました。クリスマスの前日は、一日をキリストを崇拝する瞑想に捧げます。こ れは、朝から晩まで魂のうちでキリストを讃え、イエスのうちに生まれた無限なるキリスト意識を自らのうちで感じることに専念するためです。これまでにない 深い平安と歓び───全てを抱く意識への拡張───の体験となります。瞑想中、私の前にはしばしばイエスの姿が現れます───そのまなざしのなんと愛情深 いことか! クリスマスの真の意義に匹敵する祝祭が世界中でならわしとなる、それが私の祈りであり───また実現するとの確信でもあります。
 
 「天の大軍」がベツレヘムの田舎の羊飼いに送ったメッセージは、「地には平和、御心に適う人にあれ」です。世 界の平和はおのおのの心のうちの平和よりはじまります。「あらゆる人知を超える神の平和」(*1)が、イエスが人々にもたらした平和であり、それこそ世界 親善の唯一のいしずえです。これは瞑想による内なる神との一体において見いだされるものです。そうして、たえず満ちあふれる源泉のごとく、家族や友人、共 同体や国家、世界へと、自然にあふれ流れます。イエスの生涯に示された理想的模範を、誰もがみな瞑想をつうじ自らの資質の一部として生きるなら、平和と兄 弟愛の千年王国は地上に訪れます。
 
 神の平和に満ちた人は、すべてに善き想い以外の何ものをも抱きません。一般の人の意識という飼い葉桶は、利己 愛に満ちるだけのたいへん小さなものです。キリスト愛の善良なるゆりかごは、すべての生きもの、すべての国家、あらゆる人種と信仰をひとつとして抱く無限 の意識をたずさえます。
 
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*1 フィリピの信徒への手紙 四・七 

[ 3-モクジ ]

 


  
=東方の三博士 イエスとインドとの関 わり=

 「東方の学者たち」が幼子イエスを礼拝に訪れたことについて、数多くの伝承が記されています。伝統的に は、彼らはマギ(魔術師、ヘブライ語ではchartumim、ギリシャ語ではmagoi)、古代メディア や ペルシャの僧侶階級の神秘家であり、隠された経典の意味を解釈する、過去の謎を読みとく、未来を予知するといった叡智や秘儀的能力があると信じられていた 人たちです。ローマ教会は、詩編七二・一〇「タルシャや島々の王が献げ物を、シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように」にもとづき、王の称号とともにこ の三博士を讃えました。教会はこれらの王を聖人とし、カスパール、メルキオール、バルタサールとしてその聖遺物をケルン大聖堂に納めました。彼らは三人で、新約聖書ではそれぞれ黄金、乳香、没薬を捧げたと言われています。
 
 三博士の礼拝は、農民がイエスの聖なる誕生を知らされたもうひとつの場面よりはるかに意義深いものです。これ は神がイエスの生涯に記した鮮明な刻印であり、のちのイエスの使命とメッセージを特徴づけるもの───イエスが東方で生まれた東方のキリストであり、また 彼の教えが東方の文化や宗教に影響を与えたことを思いおこさせるものです。インドでは、教養豊かな形而上学者らにたびたび言われ、また太古の経典にも記さ れることから確かなこととして知られることですが、ベツレヘムの幼子イエスの誕生にむかった東方の三博士は、事実、インドの偉大な聖者であったという実に 根強い伝承があります。インドの師らがイエスを訪ねただけでなく、イエスも彼らのもとを訪ねています。イエスの生涯にまつわる不明な年代において───三 十代から四十代のイエスについては記述がありません───地中海と中国やインドを結ぶ交易ルートをたどり、インドを訪ねたものとされます。(*1)インド の師との親交や霊性に恵まれた環境は、イエスの神なる意識をふたたび呼びさまして強化し、彼の説く教えには普遍的真理という背景がそえられました。彼の教 えは自国の一般大衆にも分かりやすい簡潔で開かれたメッセージでありながら、人々の意識が成熟するにつれ、世代をこえて讃えられる意義深さをそなえていま す。
 
 文明が物質的な知識の拡大において飛躍的な前進をとげるにつれ、人々は宗教的な教条の基盤がゆらぎ崩壊するの を見ることでしょう。必要とされるのは、宗教の科学と宗教の神髄、啓示の結合───深遠なるものと通俗的なものの結合───です。主クリシュナの教えたヨ ガの哲学───宗教的教条における生命というものへのもろくはかない期待にとってかわり、内なる神を体験する実際的な手法を提示する教え───と、イエス の説いたキリスト愛と兄弟愛の精神───根強い差異意識による世の分断への唯一確かな万能薬───は、唯一同一の普遍真理としてともに並びます。この東洋 と西洋の「キリスト」は、それぞれ化身した時代に応じ、一見したところの強調点を異にするのみです。
 
 本書は、イエスの教えをつうじ、はかりしれぬ太古の昔より母なるインドが養ってきた宗教というもののゆりかご へとさかのぼり、そこから神の覚醒における宗教の普遍性へと読者を招くものです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためでなく、完成するためである」(マタイによる福音書 五・一七)(*2)偉大なる者は、教条や宗教上の好都合な慣わしではなく、時代を超えて 神を知る予言者らが言明してきた真理の本質的な諸原理を守り、またふたたび述べるために降臨します。神のアヴァターをつうじて伝えられた神の言葉のこうし た連続性が、イエスの誕生とその化身を讃えるべくインドから訪れた三博士(*3)の間でなされた霊性の交流に象徴されています。
 
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*1 講話五参照。
 「伝統的に、イエスのいた世界は、昔ながらの田園や牧草地の広がる穏やかで牧歌的な風景として描かれる。しか し、近年の考古学的検証から、それとは異なる環境であったことが示された」PBS放送のドキュメンタリー番組、”From Jesus to Christ”(Frontline, 1998)は報告する。一九七〇年代はじめ、考古学者らはイエスの故郷ナザレから六キロたらず───徒歩で小一時間の距離───に位置するガリラヤの首都 セフォリスの遺跡の発掘を開始した。Union Theological Seminaryの学長Holland L. Hendrix教授はいう。「セフォリスの発掘により、イエスがローマ帝国の多様性のすべてをたずさえる、繁華で洗練された都市部近くにいたことが示され た」
 D. P. Shingal教授は、”India and World Civilization”(Michigan State University Press, 1969, vol.1)でこう記す。「キリスト教の起源について、伝統的に、当時その地域ではそれ以外には何も起こらなかったかのように、キリスト教思想の隆盛に関 連する事項にのみ集中的に焦点を当てる」しかし実際の状況はきわめて異なるものだった。政治活動はしれつで宗教的にも多様な時期であり、当時のローマ帝国 のいずれの街や村においても、のちのキリスト教を形づくる一端を担った様々な活動、習慣、宗教儀式があったといっても過言ではない。…(略)…
 ヒンドゥー教思想も、改宗には至らないまでも、西アジア一帯に伝わっていた。紀元前二世紀、アルケサス朝の Valarasaces王の庇護のもと、ヒンドゥー教徒がアルメニアのタロン地方カントンに移住し、洗練された街や寺院を建造したが、四世紀初頭、聖グレ ゴリウスによりそうした寺院は破壊された」
 Singal博士は、シリア人の著述家zenobの言葉を引用している。「紀元四世紀初頭、アルメニアにはお よそ五千人ものクリシュナ信徒がいた」
 Singal博士はさらに主張する。「イエスはまぎれもなくユダヤ教の概念を根本から拡張し変革したが、イン ドの文化をふくめた様々な文化が、一種独特な宗教的背景を生じるべく混在する国際的な都市部において、私的な体験という光のもとなされたことだった」
*2 講話二七参照。
*3 福音書の言葉には、マギの出身地(およびその数)を特定する情報は何ら見あたらない。彼らの母国について の見解は、バビロン、アラビア、カルデア、ペルシャと様々である───ペルシャ説は、ペルシャの宗教ゾロアスター教の司祭らがマギとして知られていたこと に由来する。しかしボンベイの聖ザビエル大学、インド歴史研究学会長のHenry Heras, S. J.は ”The Story of the Magi”(Bombay: Society of St. Paul, 1954)で、三博士が事実上インドのヒンドゥー教のリシであったという見解を支える膨大な歴史的根拠を提示する。(Heras神父の著作は高く評価され ており、一九八一年には政府より記念切手が発行され、神父の歴史研究、歴史学へのきわだつ貢献が讃えられた)
 Heras神父によれば、福音書のmagoiという言葉は、三博士をゾロアスター教の司祭であるものとして用 いていない。「もしもそうであるなら、教父の伝統すべてにおいてペルシャがマギの国であるとされるはずだが、そうではない。…(略)…聖マタイはこの名称 を広く叡智の贈りもの、つまり叡智の贈りものを担う者、聖者を示すものとして用いている。まさにこの一節の英語訳『Wise Men(賢人たち)』こそ、執筆者の意図した意味を伝えるものであろう。しかしどの国からその『賢人たち』は来たのだろうか。…(略)…すべてのことがら が、この『賢人たち』がインド人であったこと、はるかの昔より真理───最古の国家の叡智の吐息───を追究してきた国のリシたちであったと示しているよ うに思われる。…(略)…」
 キリストの時代よりはるか昔、インドはパレスチナと交易関係にあった。東洋と地中海の諸文化(エジプト、ギリ シャ、ローマをふくめ)の交易の多くは、太古のシルクロード、西の終点エルサレムおよび中国インドその他の重要な隊商のルートでなされた。東西の交易は聖 書(歴代誌下 九・二一、一〇)にも言及されており、「タルシシュの船団」がソロモン王に「金、銀、猿、ひひ」を運び、またオフィル(ボンベイのソパー ラ)からは「白檀や宝石」が運ばれたことが記されている。さらには学術的にもキリスト教の伝統においても、キリスト教思想はイエスの死後まもなく、十二使 徒のひとりトマス自身が生涯の最後をインドですごし伝えたとされる。Heras神父は”Opus Imperfectum in Matteum”と呼ばれる太古のキリスト教の文献を引用して言う。「使徒トマスはマギの国で教えを説いた。古代オリエントの著述家らは、インドが使徒の 伝導の地であったことをよく知っていた。聖ヒエロニムスは、聖トマスがマギらに福音を説き、最後にはインドの地で眠った、つまり死んだと記している」
 さらにHeras神父は指摘する。「よって、マギが叡智の伝統の国インドのリシたちであるなら、彼らリシが金 や乳香、没薬を幼子とその母親に捧げたことにも何ら不思議はない。まさに太古の時代より、インドで新生児の両親に捧げられる贈りものである。…(略)…現 在のペルシアにこの種の贈りものを赤ん坊が産まれたばかりの両親に贈るという慣習は存在せず、また過去においてもそうした慣習が存在したと知る学識者もい ない」
 インドの数世紀におよぶ伝統自体、「賢人たち」がこの国から来たことに言及している。十七世紀のゴア(インド 西海岸のポルトガル植民地)に暮らしたイエズス会神父Fernao do Queyrozは、先の歴史家らの研究で(ともに十六世紀のManuel dos AnjosとJeronimo Osrio)、一四九八年五月、有名なポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマがインドにたどりつき、インド西海岸のカリカットで聖母マリアをまつったヒン ドゥー寺院を見つけたことに言及したものを引用している。二人の歴史家によれば、ダ・ガマは、マラバル地方の年代記に、太古マラバルの皇帝でカトリックの 都を築いたChery Perimale(Chera Perumal)がその寺院を建造したと記されている、と聞いた。ダ・ガマは、Perimaleが「『ブラーフミン』で、インドで最も賢き人のひとりであ り、幼子イエスを讃えるためにベツレヘムを訪ねた三人のマギのひとり」であったこと、またカリカットへ戻ったのちその寺院を建造したことを知らされた。
 また別の記述としては、十六世紀のポルトガルの歴史家Joao De Barrosがマラバル地方にふれた著述で、南インドの「Pirimal」という名のある国王がマシアテに行き、そこから他の者たちと幼子イエスを讃えに ベツレヘムに行った、とするものも発見されている。(出版社注) 

[ 3-モクジ ]

 


  
=霊性の目 真の「東方の星」=

 旧約聖書の予言者らが、キリストがベツレヘムに降臨すると預言したように、神が人々に助けの手を差しの べるというこの大いなるできごとは、キリストの生涯や使命とつながりのあった三博士らにも前もって知らされました。アヴァターたちは、その誕生のとき、天 上での宇宙的、占星術的な吉兆の配置を選ぶことがよくあります。そうした配置のすべてが相互に善や悪の作用をもちつつ、総体的に独自の特徴的波動を発しま す。神を知った人々は、そうした星の示す徴候を霊性の洞察力で読みとることができ、現代の占星術家らによる精緻な星図チャートも彼らの知覚力にははるかに およびません。天球図がイエスの誕生について三博士に何を示したにしても、彼らがキリスト・イエスの地上への降臨を知ったのは「東方の星」のより偉大なる 力によってでした。霊性の目は遍在の光、魂の直感的な神なる知覚力であり、身体の「東」に位置します───肉体の二つの目の間の額、キリスト意識の精緻な 霊性センターにあります(*1)
 
 人は確かに、マクロ的宇宙におけるミクロコスモスです。人の限られた意識は潜在的には無限です。肉体の感覚器 官は人を物質世界に制約しますが、その魂は神御自身が知るであろう万能の認識機能をそなえます。イエスは言いました。「実に、神の国はあなたがたの間にあ るのだ」(*2)あらゆる具現は聖霊の波動であり、父なる神がキリスト意識として波動性の創造のうちに投射した超越的宇宙意識の「知性 (Intelligence)」と「力(Power)」を吹きこまれています。大宇宙が三位一体の「知性」と「力」により創造されたように、人も霊性の目 という小宇宙の三位一体の力に支えられています。
 
 眉間のポイントに瞑想の集中をおくとき、霊性の目を知ることができます。中心の輝くばかりの白い星が、サファ イア・ブルーの光に囲まれ、光を放つ金のオーラがそれをとりまきます。金の光は聖霊の波動性の天球の縮図であり、青い光は遍在するキリスト意識の知性で す。星は父なる神の宇宙意識への神秘の扉です。
 
 イエスは言いました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(*3)ヨガの瞑 想の実践により、眉間のポイントでいかに自らのうちに焦点を結ぶかを知る信徒は、視神経をへて肉体の二つの目に流れる光が、かわりにひとつの霊性の目に集 中していくのが分かるでしょう。肉体の両目は、一度に相対的な世界という限られた部分のみを知覚します。霊性の目のヴィジョンは、天上的普遍性をみること ができます。
 
 深い瞑想において、信徒は三色から成る霊性のo垂フ光により、意識と生命エネルギーをへて三位一体のマクロ的 具現をも見通します。
 三博士がキリストの誕生を知らせる星を見たとき、彼らは霊性の目の無限の認識力、叡智の星をつうじて、キリス ト意識がどこで幼子イエスの身体のうちに新たに顕現されたかを知りました。(*4)
 
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*1 ヒンドゥー教の経典では、額は肉体の「東」の部分であるといわれる。方位磁石が地上で示す方向が、極性の 南北と、地軸を中心に回転し太陽が東から昇り西に沈むように見えることからきているように、ヨガの身体学でも、象徴的に東西南北を人体という小宇宙に関連 づける。北と南は脳脊髄という軸の陽性と陰性である。生命エネルギーと意識は、大脳の高位の霊性センター(北)への上昇、または物質意識にまつわるより低 位の霊性センター(南)への下降へと、磁力的にひきよせられる。東と西は、直感的な霊性の目をつうじて精妙な神性の領域を認識するときの、人の生命および 意識の内(東)への方向性と、粗雑な五感と物質的創造の相互作用という外(西)への方向性をいう。よって、「東方の星」とは、額の霊性の目の象徴───人 体のうちの生命である太陽、内なる神への扉の象徴である。
 『エゼキエル書』は言う。「それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。見よ、イスラエルの神の栄 光が、東の方から到着しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた」(エゼキエル書 四三・一?二)額の神なる目をつうじ て、ヨギの意識は遍在性へとのりだし、「言(ことば)」、オーム、「大水」の神なる音、創造の唯一の真理である光の波動の音を聞く。
*2 ルカによる福音書 一七・二一(講話六参照)
*3 マタイによる福音書 六・二二(講話二六参照)
*4 聖ヨハネス・クリュソストモス(三四五〜四〇七 コンスタンティノポリス主教、教会の指導者、ギリシャ教父の偉人)は、”Sixth Homily on the Gospel of Saint Matthew”で記す。「それが星々のひとつでなかっただけでなく、まったく星などではなかったように思える。私の思うところでは、むしろ星のように見 える何らかの目に見えぬ力である。…(略)…この星は夜ばかりでなく、実に太陽の光輝く昼間も姿を見せない。…(略)…高き大空にあっては、旅人たちを導 くことはおよそ不可能だったろう。…(略)…星が小屋のある場所を示すことも、ましては幼子の横たわる場所を示すのも不可能である」 

[ 3-モクジ ]

  


  
=幼子イエスに顕現された無限の力=

 私たちは飼い葉桶の中の幼子イエスを、母親の母乳と世話に頼る無力な存在と考えます。しかしその小さき 姿のうちには、無限のキリスト、私たちすべてが動画の陰影として踊る大宇宙の光がありました。一日中瞑想するクリスマスのある年、幼子キリストを見たいと 祈ると、額の霊性の目の光が輝きだし、私は幼子イエスを見ました。あらゆる自然界のエネルギーがその幼き顔の中で戯れていました。その瞳の光に大宇宙が震 え───その二つの目の指示を待っていました。それが三博士の見た幼子でした───天使たちがその上に立ち止まって見つめ、全宇宙的意識がそのうちで具現 する幼子です。
 
 覚醒した魂の身体や表情には、霊性の印が顕れます。これらの印は明かされることなく、それを読みとることので きるごくわずかにのみ知らされます。これらの印があったこと、また霊性の目により、三博士は彼らの探し求めていたキリスト、大宇宙の主とひとつである幼子 を見つけたことを知りました。彼らはひざまづき、象徴的な贈りものを捧げました。それらは、インドでは伝統的に新生児に贈られるものです。黄金(物質的財 宝)は、霊性の師に授けられる解放にまつわる真理の偉大なる価値を讃えることを象徴し、叡智の授け手に捧げられます。香は献身を象徴し、神の導きと祝福が 流れくる経路である師に捧げられる、心からの愛の香りです。没薬は、イエスがその神なる使命を果たすのに要されるであろう、厳しい試練と犠牲に報いるもの です。
 
 他の人々が参与することも証言することもなかった意識の超越的レベルにおいて、人々の象徴的恩恵となるであろ う───真理のメッセージをたずさえる神の至高なる者のひとりとしての───イエスの運命について、魂同士での霊性の交流がなされていました。(*1)
 
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*1 三博士がインドから来たことについて見解を同じくする人々の中に、二十世紀の偉大な神秘化であり聖痕を示した人物、ドイツのコナースロイトのテレサ・ノイマンがおり、彼女は毎週のようにキリストの受難と十字架刑、「十字架 の道の瘤」を体験した。(『あるヨギの自叙伝』第39章参照)Friedrich ritter von Lamaによる”Therese of Konnersreuth: A new chronicle”(Milwaukee: Bruce Publishing Company, 1935)の中で、次のようなできごとが述べられてる。
 「一九三二年九月、インドのコッタヤムのAlexander Chulaparambil大司教が、司祭学院の院長Thecanat神父とコナースロイトを訪れたさい、彼女が忘我と盲目の状態において、通常の意識で は知りえないことを認識する能力についての興味深い証拠が示された。大司教の連れの神父は、私に次のような手紙をよこした。『テレサも牧師も、私たち二人 が来ることを知りませんでした。…(略)…テレサはちょうど「十字架の道の瘤」で、クレネ人シモンが登場したところを見たあとで、彼女は休みながら見聞き したことを話し…(略)…シリア語(つまりアラム語)で「Slanlak Malka de Judae!(栄えあれ、ユダヤの王よ!)」という言葉をくりかえしました。もちろん私たち二人はその言葉を聞いて驚きました。シリア・マラバル教区に属 する大司教が同じ言葉を返したところ、テレサはこう言って彼の言葉を訂正しました。「おそらくあなたは表記どおり言葉にしたのでしょうが、 私はこのように聞きました」そうしてくりかえしました。私たちの誤りが分かりました。私たちは最初の言葉の最後の子音に短母音のaを用いていたのですが、 テレサの言葉では長母音のaを用いるべきでした。…(略)…数分後、Nebar神父が大司教に彼女のベッドの近くにくるよう手招きしました。大司教がテレ サの左手に触れると、彼女はその手を強く握り、「彼は幼子キリストを礼拝した三博士らの国の、高位の牧師です」[と言った]』」(出版社注)  

[ 3-モクジ ]















 

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講話四 イエスの幼少期と少年期
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冒頭 聖書引用 

歴史的証言 事実か作りごとか 
暗き時代が正式な聖典に与えた影 響
アヴァターの生涯に印される神性と人間性
幼子イエスによる奇跡
霊性の天才は魂の全知の直感的機能をひきだす
「わたしは自分の父の家にいる」 イエスの理念
補いあう霊性の努めと物質的な努め 
 
 


 占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子どもとその 母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜の うちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が予言者を つうじて言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り学者たちに確か めていた時期にもとづいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させた。こうして、予言者エレミヤを通して言われていたこ とが実現した。「ラマで声が聞こえた。嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもろうともしない、子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供と母親を連れ、 イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ 帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラ ヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、予言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

───『マタイによる福音書』 二・一三〜二三
 

 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二才になったときも、両親は祭りの慣習に 従って都に上った。
 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づ かなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、探し ながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこ んなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしは自分の父の家にいるのは当たり 前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、 両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

───『ルカによる福音書』 二・四〇〜五一 

[ 4-モクジ ]

 


  
=歴史的証言 事実か作りごとか=

 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(『ルカによる福音書』  二・四〇)

 新約聖書の各福音書には、幼少期のイエスについてかなりの情報不足が見られます。各福音書とも、エジプ トでの幼少期からイスラエルの少年期のイエスの全体像については、ルカによる福音書で、十二才の少年イエスがエルサレムの神殿で学者たちと賢く議論を交わ した、という記述をのぞき沈黙します。一般のキリスト教徒には知られていない、または反論されるものに、少年イエスのエピソードに言及したと思われる古い 写本があります。『幼子イエス・キリストの福音(”The Gospels of the Infancy of Jesus Christ”)』と簡潔に題されたのもで(そのうち一部はイエスの弟子トマスによる)、二世紀グノーシス派やそれに続く他のキリスト教分派に、引用され たり聖典であるとされています。(*1)

 時間は人の心、とりわけ当時とはへだたった時代の人々の心に働きかけ、注目に値する人の人格およびその 生涯にまつわるできごとを、より高邁なるもの、もしくはより落ちぶれたものであったと思わせる作用があります。そうした人物やできごとが宗教的に重要なも のであるなら、事実が伝説へと変わるのもさらに早まることでしょう。しかし、伝説伝承の織りなす物語から真理の糸を引きだそうとするのが魅力的で神秘的で あろうと、たんなる記録にはない啓示や畏怖を生じることはひとつもないと否定できましょうか。インドはそうした点に理解があり、この国の最も聖なる霊性の 財産やそうした宝の聖なる授け手らを、深遠にして意義深い神話や象徴性でおおいかくし、経典の諸原理や規範は、他国の統治とその影響下にあった時代を越え 保持されました。おそらく、太古の証言の数々は、考慮するまでもないとして、ぞんざいに捨ててしまうべきではありません。もちろん、よく見きわめ吟味する 必要があるのは確かです。真理が後に続く各世代の解釈、ときにはある特定の一世代の解釈をへるさいには、その時代と目的に最もかなった「明確な解釈」をす るのが適切であるとして、悪意なく歪曲されたり意図的に徹底的に改ざんされたりするのは避けられないことです。

 キリスト教会および教条の教えの統一性を保持するため、事実と作り話とをより分けること、明らかにそれ が初期教父らの意図でした。新約聖書はイエスの生涯と教えを記した二十七の書で構成されますが、初期教会によりさらに膨大な記録の中から集められたもので す。(*2)
 異教と聖なる教義とを議論し審議するのに、いわば教養人といわれる人々からなる各公会議が招集されました。異 教徒であると判断された提示者は、その記録ともども、火刑により糾弾されかねないと知ったことでしょう。名声ばかりかその人生までもが、政治的、宗教的ヒ エラルキーの意向に左右されたのであるなら、そうした議会のメンバーひとりひとりが正当に評価されえたのかは、疑問に感じるところです。

 ウィリアム・ホーンは『新約聖書外伝』で、三二五年、 コ ンスタンティヌス帝により招集されたニカエア公会議でのできごととして知られる伝承を───疑念の余地の あるものとして───引用しています。三百人の司教らが、「その議会での審議に関わる文書のすべてを正餐台の下に乱雑に並べ、主に啓示となる記録を台の上 にあげ、疑わしき記録はそのままに、と祈りを捧げたところ、そのようになった」注釈者ホーンは、その公会議に招集された司祭について言います。「コンスタ ンティヌス帝は言った。『彼ら司教に承認されることは、主御自身の裁定にほかならない。彼らのごとき偉大にして気高き魂のうちの聖霊が、彼らをつうじて神 の御意思を明かすからである』しかしヘラデアの司祭サビヌスは、『コンスタンティヌス帝とエウセビオス・ランフィルスをのぞいては、何ら理解のない無学で 素朴な生きものの集まりである』と断言した」少なくともホーンの言うように、ロンドン司祭長ジョン・ジョルティン(一六九八?一七七〇)のこうした公会議 についての皮肉混じりの分析に、ささやかな親しみを覚えずにはいられません。「エルサレムでの使徒らの会議[『使徒言行録』]が、聖霊がうちに宿ったとい える最初にして最後のものであった」(*3)

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*1 ここでパラマハンサジが言及しているのは、William Hone編集・注釈の“The Apocryphal New Testament”の一部のことである。表題頁には「新約聖書の編集においてふくめられることのなかった、イエス・キリスト、使徒、信徒よる紀元四世紀 までの福音書、書簡、その他現存するすべての断片集」と記されている。このHoneの外伝には「幼子の福音」が二つおさめられている。ひとつは、現在では 『アラビア語による幼子の福音(The Arabic Infancy Gospel)』と呼ばれ、一六七九年、ケンブリッジ大学の東洋言語学教授Henry Sikeにより、アラビア語の写本から英語に翻訳されたものである。現代の学者らは、この写本をシリア語(アラム語の方言のひとつ)のより古い写本に由来 するものとしている。
 ホーンの外伝におさめられたもうひとつの「幼子の福音」は、『トマスによる幼子の福音(The Infancy Gospel of Thomas)』という短い断片である。ホーンが復元したものよりさらに完全に近い写本がのちに発見され、学者らに編集され読める状態になっている。事 実、現在では『アラビア語による幼子の福音』の記録の多くは、この『トマスによる幼子の福音』から引用されたものであると考えられている。トマスの記録の 最初期のものは、紀元一八五年のエイレナイオスの著述と照らしあわせ確証された。
 興味深いことに、ホーンは『アラビア語による幼子の福音』が、一五九九年、インドの沿岸地方マラバルの山々で 活動するネストリア派キリスト教徒らの集会で用いられたことに言及している。伝統的にこの地域は使徒トマスの伝導の地である。(出版社注)
*2 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、 世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネによる福音書 二一・二五)
 “Jesus of Nazareth in Early Christian Gospels”の著者Andrew Bernhardは言う。「『ヨハネによる福音書』(二一・二五)の結びの言葉などから、初期キリスト教徒らの間でイエスにまつわる逸話に何ら不足のな かったことは確かである。疑いようもなく、彼らはこの世を去ってまもない師について、覚えているすべてを互いに語りあい、また耳を傾ける人々に喜んで話し 聞かせていたのだろう。直接の目撃者の記憶を口伝えに伝えるだけでは、 イエスにまつわる回想を長らく保ちえないのは明白であるとして、続く者たちの一部は、後の人々のため、イエスについて伝えられることを書きとめることにし た。『ルカによる福音書』(一・一?四)によれば、「多くの人々が」イエスの行いについて「物語を書き連ねよう」とした。最終的にそれらの多くは新約聖書 の福音にはならなかったものの、オリゲネス(”Homily on Luke 1.1”)など、初期キリスト教徒の著述家らおおぜいの手によるものであることが分かっている。(出版社注)
*3 John Jortin “Remarks on Ecclesiastical History Vol.2 

[ 4-モクジ ]

  


  
=暗き時代が正式な聖典に与えた影響=

 イエスが化身した暗き時代とそれに続く数世紀の影響は、教会の神父らにある種の記録を正式な経典写本か ら排除するという、無知や迷信に満ちた混乱の時代背景であったとして、非難されてしかるべきものです。信徒らがイエスの回想やメッセージを定め保持しよう という試みにおいて、それに対抗し弱めようとする勢力から新たなる信仰を守り、また教会の権威的ヒエラルキーを信仰の最上位の護り手として維持する、その ために最良の教義や記録のみを正統とするという過ちを犯しがちであったことも、まったく驚くことではありません。ましてや、イエスのどんな性質やふるまい を地上に降りたった「神の子」の唯一完全なものとすべきかについては、この時代というものを考慮するなら、妥協の余地もなかったことでしょう。(*1)

 真理の絶対的な確証は、学識者の理性的分析や聖職者の信仰と祈り、熱心な研究者の科学的検証、それ以上 において得られるべきものです。教条のいずれも、最終的な確証は、実際にひとつなる真理にふれた各個人の理解のうちにあります。宗教的事項にまつわる見解 の違いは、人々がその証明を求めるかぎり続くであろうことは疑いようがありません。それでも神は、多様のすべてが同じように一体性を見、それに続いている ことから、天球を超えそれぞれに明確な指示を示すことに何ら問題はなく、人類という家族の多種多様の集まりを愉しんでおられます。

 太古の記録より知れるイエスの生涯をより広義に語るという私の目的は、その正当性を示したり、事実であ ると主張することにあるのではなく、インドの聖者、リシ、アヴァターといった広大な霊性の伝統を背景に、信頼にたるものとして提示することにあります。幻 惑的なマーヤーのヴェールをも見とおし、神の視点より神の創造を見ることのできる化身らが、その霊性において例外的であるのは実によくあることです。そう でなければ、帰依者や求道者らは、神のような人々の生涯を特徴づけるまれなる資質やふるまいに顕されまた賞賛されるもの以外のところに、いかに彼らの内な る神性を見いだし讃えることができるというのでしょう。「奇跡的」な生涯とは、他の人々を無知よりひきあげる精妙な波動の影響力があるものであり、また神 の威力、神の言葉への信仰をかきたてるため、イエスによってなされた劇的な実例であったとも言えるでしょう。

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*1 今日『新約聖書』として知られる書物がはじめに登場するのは紀元三六七年のことである。
 何十世紀もの間、抑圧されたり破壊された大量の写本の存在は、事実上、学者らにも信徒にも知られることがな かった。一九四五年、有名なエジプト、ナグ・ハマディの発見により、その一部に光が当てられた。プリンストン大学の宗教学教授であり著名な初期キリスト教 思想の研究者であるElaine Pagels博士は記す。ナグ・ハマディの発見により、「今や、私たちがキリスト教思想と呼ぶもの───キリスト教の伝統としているもの───が、実のと ころ他に何ダースもあるうちの特定の情報源より選別されたごくわずかであることを知りはじめている。…(略)…
 紀元二〇〇年までに…(略)…キリスト教は、自らを唯一『まことの信仰』の守護者と解する大司教、司祭、助祭 という三階級を筆頭とした宗教機構となった。…(略)…異教の『冒涜』のかすかな痕跡さえもうち砕こうという多数派の尽力は、ナグ・ハマディが発見される までは、それに対抗しとってかわる初期キリスト教思想にまつわるおよそすべての情報までもが、主要な正統派に由来するというほどまでに成功をおさめてい た。…(略)…一〇〇〇年以上前に発見されていたなら、[それらの]写本はおそらく異教であるとして火にくべられていたことは確かであろう。…(略)…今 日私たちは、それらをたんなる『狂気や冒涜』でなく、初期数世紀にそうした体験をしたキリスト教徒として───私たちが正統派キリスト教の伝統として知る ものにとってかわる有力なもののひとつとして───、別の視点で読んでいる」───Elaine Pagels “Gnostic Gospels” (New York: Vintage Books, 1981)(出版社注) 

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=アヴァターの生涯に印される神性と人 間性=

 神というものの認識理解に関し西洋に見られる難点のひとつは、人が人間なのか神なのかについての意識で す。人間であるとするなら、人の姿に形づくられすべての欠点を生来そなえることになり、神性であるなら、人は神の姿に形づくられ不完全さのかけらもないこ とになります。

 しかしインドのヴェーダの叡智、とりわけバガヴァッド・ギータのバガヴァン・クリシュナのヨガ体系にお いては、一般性を超え神とひとつであると悟った意識の人々の、神性と人の属性についてが解消されます。顕現の存在自体、媒体であるマーヤー───ひとつな るスピリットを多様の姿に分断し、差異化する幻惑の力───により活性化された諸法則、諸作用の複雑な結果であるように、神性に至った存在も、顕現を創造 し維持する諸原理にさらされずに有形の姿をとりそれを保つことはできません。

 よってそうした存在も、肉体という制約つきの道具および周辺的な諸作用を当然のこととして体験します が、それと同時に、その魂は一般の人々の意識をそこねるマーヤーの宇宙的な催眠術には曇らされないままです。

 「幼子の福音」にあるイエスのふるまいは、西洋の人々にとって何ら驚くことでも想像しえないことでもな いでしょう。ウィリアム・ホーンは『新約聖書外伝』第二版の前書きで、それら写本に言及し言います。「本書は、コーランの伝承物語やヒンドゥー神話とかな りの割合で結びつく。インド神クリシュナが化身の間に行った奇跡やふるまいの多くは、まさに外伝中の福音にある幼子のものと同じであり、それらの多くは トーマス・モーリス師の教示豊かな『ヒンドゥー教の歴史』(*1)で詳細に述べられている」

 神の意思にそう奇跡の数々は、意識的に発動さされたのであれ、神に意識を合わせた魂の内の超越的な働き かけから肉体という道具をつうじて瞬時に表出されたのであれ、神の聖なる使者より発せられます。よって、幼少期においてさえイエスは偉大な力、エリシャと して先の転生で顕したのと同様の力をそなえており、成人したイエスが生と死を超え、神の指令以外には屈することのない固定的な自然法則をも超える指揮権に おいて行使するであろう奇跡の数々を予兆するものでした。

 「幼子の福音」では、イエスがすでにゆりかごの中から母に語りかけ、自らの降臨と世界的使命を宣言した といいます。慣例にならい、生後四十日の幼子がエルサレムの寺院で神の前に差しだされたときには、「天使たちが、国王を囲む護衛のように、幼子をとりかこ んで立ち、讃えた」東方の三博士の礼拝では、聖母マリアが彼らにイエスをくるむ布の一枚を渡し、「そのとき、彼らの旅を導いた星の姿をとった天使が、彼ら の前に現れた」三博士が国に帰ると、「国王たち、王妃たちが彼らのもとに来て、何を見、何があったか尋ねた」三博士はくるみ布をとりだし、慣例にしたがい 聖火をおこして布を捧げ、火に投じまし[メB「炎が消えたとき、彼らは、まるで火がふれなかったかのように、もとのままのくるみ布をとりあげた」

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*1 Thomas Maurice “History of Hindostan”(London: W Bulmer and Co., 1795) 

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=幼子イエスによる奇跡=

 ベツレヘムで力ある王が誕生したとの預言を恐れ、ヘロデ王が幼児をひとり残さず殺すよう命じ、神がヨセ フにマリアとイエスを連れてエジプトに避難するよう警告したとき、聖なる幼子の存在により、避難の地でいくつか奇跡がおこりました。「幼子の福音」では、 悪霊にとりつかれたエジプトの高司祭の息子が癒され、また息子の父の手入れする名高い偶像が理由もなく倒壊し、信徒らは恐れおののいたと言及しています。 ある女性は悪霊をはらわれ、魔術師に口をきけなくされていた花嫁は、幼子イエスを両手に抱き癒されました。らい病などの病気で体の弱っていた人々が癒さ れ、また幼子イエスが浴びた水を体にかけたことで癒された人もいます。

 『外伝』によれば、イエス、ヨセフ、マリアはエジプトで三年間すごしました。(*1)

 エルサレムに戻り、幼子イエスによる同様の奇跡は連続します。幼子から少年になるにつれ、イエスはより 意識的に神より授かった力を行使しはじめます。伝承の逸話の数々は、性質として気まぐれでかんしゃくもちともいえる子どもが、物質や生と死そのものをもし のぐ力をもち、その指令には諸要素もしたがったと説明するものである、そう誤解されるのももっともなことです。確かに、それらを文字どおりに受けとること 自体、まさにそうした逸話を異教的な灰の山にしてしまうでしょう。これら伝承のうちに息づく確かさの痕跡は、救い主が地に降りたったただひとつの目的とい う光に照らして見るべきです。こうした人物の行いに、復讐心や傲慢な意図はみじんもありません。記述によれば、幼子イエスに会ったことで、衰弱したり、盲 目になったり、息絶えた人がいたなら、そうしたことで過去世の悪行の何らかの結果が軽減されるのは、確かにイエスの指令によります。これと関連し、エリ シャをあざけった子どもたちは、預言者が森から呼びあつめた熊に襲われましたが、これは怒りの行いでなく、長い過去の悪しきふるまい───カルマ、原因と 結果、神の正義の法の結実───のつぐない、罪滅ぼしの機会の因となることを認知してのことでした。(*2)事実インドの経典では、神の使者の手により行 使されるカルマの正義は、罰せられた魂を解放へと導く恩恵、祝福であるとされます。主クリシュナは神聖なる目的でのみ、悪行の人々を滅ぼしました。同様 に、幼子イエスをつうじ、危害を加えるためでなく解放するため、神の正義の法が顕されました。(自らを救い主と思いこむ暴君や利己主義者に、そうした特権 が付随することは断じてない!)

 少年イエスは、生と死、生物無生物という物質すべてを操作可能な神なる意識の波動として見ました。私た ちは、イエスが嵐ののち池からすくった泥で雀を作り、安息日にそのようなことをしたととがめられ、その鳥に命を吹きこみ飛び去るよう命じた、そう聞かされ ています。たいていの場合、イエスの指示で死や病に苦しんだ人々は、再び彼により息を吹きかえしたり、健康をとりもどしており、それはまさにのちの彼の活 躍で、イチジクの木から命をぬきとり枯れさせ、またラザロを生きかえらせ死から復活させたのと同じことです。自然の法則は、あらゆる存在がそれをつうじて 生じ、維持され、消失する遍在の普遍意識との一体性を知る人には、実に素直に活性化されます。

 「幼子の福音」で、父ヨセフは大工仕事で息子のまれにみるきわだつ才能を目にしています───カナヅチ やノミを用いての職人技でなく、「誤ってヨセフが何かを長すぎ短すぎ、または広すぎ狭すぎにしたとき、主イエスがそちらに手を伸ばした。するとそれはたち まちヨセフが作ろうとしていたものとなるのだった」ヨセフがエルサレムの王より依頼され、玉座の製作に二年をついやしたのち、玉座の両側が「指定されてい たより二スパン短かった」王は怒り、ヨセフは恐れ、そのときイエスは自分が一方を引っぱる間、もう一方を引っぱるよう言いました。(*3)「二人が力をこ めて引くと、玉座はそれにしたがい、その場にぴったりの長さになった。そばに立って見ていた人々は、その奇跡を見て驚き、神を讃えた」(のちに水をワイン に変え、パンや魚を増やしたイエスにとっては初歩的なことである)(*4)
 蛇の毒で死のまぎわにいた少年は、以前の健康をとりもどしました。「男の子が泣きだすと、主イエスは、泣きや みなさい、これよりおまえは私の弟子となる、と言われた。これが、福音書でいわれるカナン人シモンである」

 人々にかみつき、誰もそばにいないと自分をかんでいた少年からは、悪魔が追い払われました。その少年 が、のち背信者となるイスカリオテのユダです。

 イエスの兄弟ヤコブは、二人でたきぎを集めに行き毒蛇にかまれました。イエスが傷口に息を吹きかける と、たちまち治ってしまいました。遊んでいたとき、ひとりの少年が屋根から落ちて死に、イエスが生きかえらせました。

 少年イエスの早熟さが描かれることはほとんどありません。学校では教養豊かな教師らが言い負かされ、彼 らにとっては不名誉なことにもなりました。彼らがアルファベットを教えたとき、イエスから、教師は文字の意味すべてを説明すべきであると迫られ、最初の文 字から先に進めませんでした。意味の説明を受けられず、少年イエスはアルファベットのすべての文字の形成と図解をひとつずつ解説しました───いずれも聞 いたこともなければ書物で読んだこともないものでした。両親はイエスをより優れた教師のもとに連れていきましたが、彼も同様に言い負かされ、生意気な子ど もだと手をあげられました。

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*1 『新約聖書外伝』の第二版(一八二一年)の注釈で、ウィリアム・ホーンは紀元三世紀のアレクサンドリア主 教ペテロにさかのぼる伝統で、主教が次のように言うのを記している。「キリストが姿を消したエジプトは、現在ではカイロから一五キロほどのマタレアと呼ば れる地である。住民たちはそれを記念してランプの火をたやさず、そこには少年キリストの植えたバルサム樹の庭園がある(「幼子の福音」では、そのバルサム 樹は聖なる幼子イエスが命じて湧きでた泉で、マリアがイエスの衣を洗った場所に成長したとしている)。
*2 「聖書(『列王記上』 二・二四)は、子どもたちが預言者エリシャをあざけったと記しています。エリシャ が『主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた』神の預言者として、エリシャは神の道具としてふるま いました。その呪いは神の法でカルマとして定められており、よって子供たちが引き裂かれることになった点で、エリシャを責めることはできません。子どもた ちは自らの悪───過去世での何千もの悪い想い、行い───のため苦しんだのです。表面的には、子どもたちのあざけりは過去の悪行の時宜にかなった結実で あり、不可避の結果が凝縮したものです。道具としてのエリシャの発した『呪い』とは、何ら害そうという利己的な意図なしに行使された、彼の霊性の波動の 『高電圧』であったといえます。
 電線に触れぬようにとの警告を無視し、流された電流で感電死する責任は、電線にあるのでなく人の愚かさにあり ます。エリシャをあざけった邪悪な子どもたちにも同じ真理が適用されます。神の正しき意思に対抗するあらゆる悪にいえることです。悪は最終的には自ら破滅 をもたらすことになります」───”God Talks With Arjuna: The Bhagavad Gita”
*3 この「王」は、六世紀まで治世したアルケラウスに言及するものというのが最も有力である。(出版社注)
*4 幼少期のクリシュナの逸話にも、物質的な物の形を変える能力が記される。村の乳搾りの女たちに愛され、愛 らしいいたずら、特にカード(凝乳)置き場でつまみぐいに興じた。ある日夢中になり、母ヤショーダがミルクをカードにするのに撹拌した器を割ってしまっ た。ヤショーダはクリシュナをモルタルの岩にくくりつけ、いっときでもいたずらをやめさせようと、腰に結ぶ縄をもってきた。しかし驚いたことに、ヤショー ダが結ぼうとしたときには縄の長さが足りなくなっていた。より長い縄をもってきて再びくくろうとしたが、この縄も短いのだった。とうとう家中の縄をもって きたが、この聖なる子どもをくくるのには足りない! 人々が集まってきて、哀れなヤショーダの嘆きを笑いだしたので、クリシュナは母を気の毒に思い、モル タルの岩にくくられるにまかせた。 

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=霊性の天才は魂の全知の直感的機能を ひきだす=

 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二才になったときも、両親は祭りの慣習に 従って都に上った。
 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づ かなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、探し ながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこ んなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしは自分の父の家にいるのは当たり 前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、 両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

───『ルカによる福音書』 二・四〇〜五一

 驚異的な早さで知識を吸収する天才といわれる人がいます。彼らは卓越した大脳の発達を準備した、過去世 からの学習能力をそなえいています。加えて霊性の天才は、魂への理解にまつわる叡智の貯蔵庫をひらく、超越的能力をそなえます───神なる無限の知性との 一体を具現する、全知の直感的機能です。

 インドの霊性の探求においては、神のごとき天才的な若者の記録が豊かに見られます。神より授かった目的 から地上に降りたった人々は、神の介在により、知性面で通常の成長発達を超える祝福に恵まれることが広く受けいれられています。

 シュカデーヴァは、リシ・ヴィヤーサ(ヴェーダの編纂者にして、バガヴァッド・ギータをふくめる『マ ハーバーラタ』の編者)の聖なる息子でした。生まれたときからまれなる子どもでした。あらゆる知識を急速に吸収し、全ヴェーダと、父ヴィヤーサから聞かさ れる『マハーバーラタ』の十万節以上を暗唱できたといわれます。

 名高く知られる人物に、聖者スワミ・シャンカラがおり、インド最大の哲人として伝えられます。彼にまつわる歴代記によれば、一才にもならないうちにまれなる言語能力を示し、二才で 読みはじめ、一度耳にしたことを記憶しその意味を直感的に理解したといいます。八才でヴェーダに精通し、おおやけの教育を終えました───あらゆる聖典経 典、著述、ヒンドゥー六派哲学すべての叡智の習熟者となりました。インド全土でアドヴァイタ哲学(非二元論)を説き、まさに最高といわれる学識者らも、彼 と議論するにおよびませんでした。十六才までには、今日の学者らにも確かなものとして崇敬される各解説書を書きおえています。「スワミ」という僧侶の伝統 を再組織化し、アディー(「初代」)・シャンカラチャリヤ、神聖なるサンニャーシの伝統の第一人者として知られます。その責務を完了し、三十二才で亡くな りました。 

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=「わたしは自分の父の家にいる」 イ エスの理念

 彼に続いた人の多くは、イエスを尊敬すべき人物としながら、その完全性についてはならびえないとして、 彼が生き説いた明け渡しの模範には、わずかの注意しかはらいません。「何よりもまず神の国を求めなさい。持っている物を売り払い、貧しい人々に分けてやり なさい。自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。神の御心を行う人こそ、私の母、私の兄弟であ る。わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。自分 の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子ではありえない」なんと高邁な諌言でしょう! しかし、遍在なる神の前に純粋さで立つ人であれば、意識におい て肉体的な執着を手放さずして───絶対条件ではないにしても、外見上の明け渡しは助けとなります───無限なる者を手にすることは不可能であると知って います。イエスは完全なる明け渡しを強調しましたが、「隣人を愛しなさい」つまり全ての人々ために働き───なおかつ「心を尽くして、あなたの神、主を愛 しなさい」と言っています。
 
 イエスの完全なる生涯においては、そうした幼き年頃でさえ、人類に仕え神に捧げる神の子がいかにふるまうべき かについて、完全なる発言をしています。自らを神の子と知り、自分の最も高き責務とは、天の父の国を広げる天上的計画を行うことであると明確に述べていま す。王の中の神なる王に守られていたイエスにとって、両親を気遣うことには何の理由もありませんでした。自らの生涯がどうなるか、どう予期すべきか、イエ スが初めて公に両親に示唆したものです。この世はあらゆる生業に多忙をきわめ、イエスの両親がそうであったように、神の責務以上に偉大な責務はないと知る 者の至上の目的と焦点は、ほとんど理解されません。『マハーバーラタ』は言います。ある責務が他のものと対立しあうなら、それは責務でなく避けるべきも の。霊性の努めと物質的な努めは対立するものではなく、むしろ互いに補いあうべきものです。対立が生じるのであれば、そうした責務は不完全であり、互いに 競いあうよりも、統一され調和して幸福なる目的へと戦車をひく二頭立ての馬となるよう修正すべきです。 

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=補いあう霊性の努めと物質的な努め=

 一般に人は世俗、家族、職業について考えますが、霊性の人は両親、子ども、親族職業その他の努めはいず れも神に仕えるものとして行います。本能的な血族意識やどん欲さに強いられつき動かされて行う利己的な人としてでなく、誰しも普遍的な愛と奉仕の意識で、 この世の幸福に参与すべきです。
 
 職業も霊性のものとするべきであり、すべてを内なる神の意識で行うことです。すべてが神の理想と調和し、神を 歓ばせるためのものとして職業に力をつくすことです。神による神なる法にかなった職業は人類への恩恵となります。人々に豪奢さ、偽善、邪悪さのみを与え、 金銭を生むだけの事業というものは、最も価値あるものこそ存続するという神の法の作用により、崩壊をよぎなくされます。人の霊性の真の充足を害する職業は 真に仕事でなく、その行い自体の性質により崩壊にさらされることになります。
 
 あらゆる物質的、倫理的ふるまいは霊性の法のおさめるところのものであるため、円満な暮らしとは霊性文化とと もにはじめられます。神を愛する高潔なる両親であるなら、わが子の第一の関心がまず神への努めにあるよう望みます。神とふれあい、すべてを神の意識で行う ことに熟達する方法を示し、子どもたちを人生の正しき道へと出発させます。内なる直感的な神の指示に導かれるなら、人生は円満、健康、完全───叡智と幸 福両者のバランスとともに───になります。

 両親への正しい姿勢を示すことは───両親への努めも大切なことではありますが───、第一にして最重 要である天の父への努めに準じるものであり───イエスは自らの神聖なる役目についてだけでなく、誰しも「神をはじめに」という真理を心にとめおくべきで あると言いました。 

[ 4-モクジ ]














 


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講話五 イエスの知られざる年月───インドへの旅
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冒頭) 

チベット僧院 太古の写本
イエスの旅 宗教の母国インド
宗教の繁栄と衰退の循環
イエスの生涯の記録は いずれも執筆者の文化背 景に色づく
西洋化されすぎた東方のイエスの教え
東洋のキリスト教と西洋のキリスト教 ───内 なる教えと外側の教え
真理が究極の宗教 帰属宗派の意 義はわずか

 

 

  
新約聖書では、十二才以降のイエスの人生については沈黙の幕が下ろされ、十 八才で聖ヨハネより洗礼を授かり民 衆に説きはじめるまで、引きあげられることはありません。こう記されるのみです

 
 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。───『ルカによる福音書』 二・五二
 
 それほどたぐいまれなる人物の少年期から三十代までについて、同世代の人々が何ら記録に値するものを残してい ないということ自体、まれなことです。
 しかし注目に値する記録が、イエス誕生の地でなく、説明されざる年月の大部分をすごしたはるか東方の国に事実 存在します。その貴重な記録はチベットの僧院に隠されていました。イスラエルから来た聖者イッシャ(Issa)、「大宇宙の魂を顕現する人物」が、十四才 より二十八才まで、インドおよびヒマラヤ近郊で、聖者、僧侶、学僧らとすごし、各地でメッセージを説いてまわった。のち自国で教えるために帰国し、そこで 悪人と糾弾され死刑にされた、そう伝えるものです。これら太古の写本の記録をのぞいて、かつてイエスの知られざる年月について公言したものは他にありませ ん。 

[ 5-モクジ ]

 


  
=チベット僧院 太古の写本=
 
 神の配慮により、これら太古の記録はロシアの旅行家ニコラス・ ノトヴィッチに発見され、書き写されました。一八八七年インドを旅行中、ノトヴィッチはこの国古代の文明の魂をゆるがす対照性と神秘に浴し ました。カシミールの壮大なる自然の中で聖人イッシャの逸話を耳にし、その詳細から、イッシャとイエス・ キリストはまちがいなく同一人物であるとの思いに 至りました。
 
 彼はチベットの僧院に保管される太古の写本の中に、イッシャがインド、ネパール、チベットを旅した年月の記録 がふくまれていることを知りました。災難や障害にさまたげられることなく北へと旅を進め、最後にはラダックの首都レー郊外のヒミス僧院にたどりつき、この 僧院がイッシャにまつわる写本の複製を所有すると聞かされました。僧院から寛大に迎えられはしたものの、写本にふれることはできませんでした。落胆したノ トヴィッチはインドへの帰路につきます。しかし危険に満ちた山道で瀕死の事故にみまわれ、落下した彼は足をくじきました。これを再び経典にふれる好機と し、彼は必要な看護を受けられるよう僧院に戻してほしいと頼みました。くりかえしの願い出に、写本は彼のもとに運ばれました。おそらくこのときラマ僧たち は、けがをした客人をできるかぎりもてなさなければと感じたのでしょう───東洋ゆかりの伝統です。彼は通訳の助けを借り、僧院長のラマ僧が読みあげるイ エスにまつわる内容をつぶさに書き写しました。
 
 ヨーロッパに戻ったノトヴィッチは、そうした過激な論説を嫌う西洋のキリスト教の伝統では、自分の発見したも のへの熱意も理解されえないと知りました。よって一八九四年、『イエス・キリストの知られざる生涯(”The Unknown Life of Jesus Christ”)』と題し、自らの手で出版しました。出版にさいし、これまで隠されていた記録の真 価について判断を下すのに、専門の研究チームを送りこむべきだと力説しています。ノトヴィッチの論説はアメリカとヨーロッパの批評家らに迎え入れられたも のの、その記録の確かさについては、定評ある人物二人以上がチベットへおもむき、それら写本を探しだし、確証性のあるものかどうか確認すべきであると評さ れました。
 
 一九二二年、ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・アベダーナンダがヒミス僧院を訪ね、ノトヴィッチの書籍でお おやけにされたイッシャの詳細すべてが確認されました。(*1)
 
 一九二〇年代半ばにインドとチベットを訪れたニコライ・レーリッヒは(*2)、ノトヴィッチが出版したのと同 一か、少なくとも同じ内容の太古の写本を見つけ書き写しました。彼もまた、その地域に口伝えに伝えられる伝承に深い印象を受けました。「シュリーナガル で、まず私たちはキリストがこの地を訪れたという興味深い伝説を知った。そうして、インド、ラダック、中央アジアには、福音書にキリストの記述の見られな い長い期間、彼がそれらの地域を訪問したという伝説が広く知れわたっていることを知った」
 
 ノトヴィッチの論説をでっちあげとした批評家らにたいし、レーリッヒは言います。「何か困難なことが意識に入 ろうとすると、軽蔑とともに否定することを好む人々はつねにいるものだ。…(略)…[しかし]たんなるねつ造が、アジア一帯の人々の意識に浸透するという ことがありえるだろうか」(*4)
 
 レーリッヒは記します。「この地の人々は、出版された書物について(ノトヴィッチの書籍をさす)何ひとつ知ら ないが、その伝説を知り、深い敬意とともにイッシャのことを口にする」(*5)
 
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*1 スワミ・アベダーナンダ(Swami Abhedananda 一九六六?一九三九)は、一九二一年より一九二四年の間、ラーマクリシュナ僧 院の副僧院長を勤めた。一八九七年より一九二一年にかけて、ヴェーダンタを説きながらアメリカを旅してまわった。その間にノトヴィッチの書籍を読み、一九 二二年にはヒミス僧院を訪ねている。ラマ僧の助けを借り、イッシャにまつわるチベット語の韻文の訳を自らてがけ、一九二九年にベンガリ語で出版した。英 訳”Journey into Kashmir and Tibet”は、一九八七年、カルカッタのラーマクリシュナ・ヴェーダンタ協会より出版されている。
*2 ニコライ・レーリッヒ(Nicholas Roerich 一八七四?一九四七)は、サンクトペテルブルグ生まれの高名な芸術家、探検家、考古学者。一九二五年から一九二八年の間、インド、チベッ ト、シッキム、中国トルキスタン、モンゴル・アルタイといった中央アジアを探訪する。彼がイエスのインドへの旅の証拠文献を再び目にしたこの探訪について の報告は、”The New York Times”(May, 27, 1926)およびその他の新聞雑誌に掲載された。
*3 Roerich, “Heart of Asia”(New York: Roerich Museum Press, 1929)より引用。
*4 Roerich, “Altai-Himalaya”(New York: Frederich A. Stokes Co., 1929)より引用。
*5 Roerich, “Altai-Himalaya”より引用。 
[ 5-モクジ ]

 


  
=イエスの旅 宗教の母国インド=
 
 イエスの生涯初期にまつわる福音書の説明は、イエスがエルサレムの寺院で司祭らと議論を交わした十二才で終 わっています。チベットの写本によれば、成人に達し婚約するのを避けるためイエスが家を去ったのは───当時イスラエルの少年は十三才でそのときを迎えま した───、その後まもなくであったとされます。確かに、イエスは婚姻という通常の慣習をも超えています。このうえない神への情熱と、すべての人を包みこ む普遍の愛を抱く人物に、人間的な愛情や家族とのつながりがなぜ必要となりましょう。この世とは、そうしたありきたりの道すじに続くようせきたてるもので あり、神の意思に応えより高邁なる道を歩む人物をどうとらえるべきか、それを知る人はほとんどいません。イエスは自らの聖なる運命を知り、それをまっとう する準備をすべく、インドへと旅立ちました。
 
 インドは宗教の母国です。インドの文明は、エジプト文明の伝承よりはるかに古いものとして知られます。その点 について学んだなら、あらゆる啓示の書に先立つインド太古の経典が、『エジプト死者の書』や『新訳・旧約聖書』その他の宗教に影響を与えたことが分かるで しょう。はるかなる悠久の時より、インドが宗教的に特別であったことから、そうしたすべてはインドの宗教にふれ、またそこから何かをえています。(*1) よって、イエスもインドへとむかいました。ノトヴィッチの写本は伝えます。「イッシャは父の家から人知れず姿を消した。エルサレムをあとにし、商人らの隊 商とともにシンドゥにむかい、その目的は、完全なる「神の言」にまつわる叡智をえ、偉大なるブッダの法を学ぶためであった」(*2)
 
 この太古の写本によれば、イエスは六年の間様々な聖地ですごし、オリッサ州プリーの巡礼の地、ジャガンナートでしばらくすごしたといいます。(*3)いにしえの時代より、とき に形をかえつつ存続し てきたその地の有名な寺院は、ジャガンナート「森羅万象の主」を───この称号はバガヴァン・クリシュナの遍在意識にも結びつく───まつったものです。 イエスとされる人物は、チベット写本中では「イーシャ(主)」とされ、ノトヴィッチは「イッシャ」と表記しました。(*4)「イーシャ(Isha)」の本 来の形「イシュワラ(Ishvara)」とは、神を至上の主、遍在の創造主、さらには自らの創造をも超える者としての神のことです。(*5)これは、キリ スト・クリシュナの遍在意識であるクスタス・チャイタニヤの本質、イエス、クリシュナ、その他、遍在の神との一体性をえた神なる魂のうちに化身した意識の 本質です。私は「イーシャ」という呼び名は、イエスの地上への降臨を讃えに訪れたインドからの「三博士」が、生まれたばかりのイエスに授けたものであった と確信します。(*6)
 
 太古の記録は、イエスがあらゆるヴェーダ、シャーストラを知りつくしたと述べています。しかし、ブラーフミン らが正統とする教えのいくつかには異議を唱えました。カースト(身分制度)の遵守や、僧侶らによる数々の儀式を公然と非難し、外見的な儀式主義により曇ら されてしまった純粋なるヒンドゥー教の一神教的資質、ひとつなる至上のスピリットへの崇拝よりも、偶像による様々な神への崇拝を強調する点を非難しまし た。
 こうした論議から身を離すべく、イエスはプリーをあとにします。続く六年間、ネパール、チベットのヒマラヤの 山々で、シャーキャ派の仏教徒らとすごしました。この分派は、暗き時代カリ・ユガ(*7)に蔓延するゆがんだヒンドゥー教から離れ、一神教でした。
 
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*1 イントロダクション(=真の教えを世に復活させるというイエスの望み=)脚注参照。
 「考古学、衛星写真、冶金技術、古代数学の見地から、?エジプト文明、シュメール文明、インダス峡谷文明の発 祥以前に偉大な文明が存在していたことは今や明らかである。この太古の世界の中心地は、インダス川からガンジス川流域───ヴェーダ期アーリヤ人らの地 ───であった」N. S. RajaramとDavid Frawley O. M. D.は、”Vedic Aryans and Origins of Civilization”(New Delhi: Voice of India, 1997)で述べる。
 インドの経典は「私たち人間に残された最古の哲学、心理学である」著名な歴史家ウィル・デュランは”Our Oriental Heritage”(The Story of Civilization, Part ?)で記す。「インドの歴史はたいへん古く、文明と宗教の発祥に多大な影響を与えた。少なくとも太古の世界のすべての人々に影響を与えており、事実上それ が私たち人類の旅路の最初期であったことは、ほとんどの人が認めるだろう。…(略)…世界最古の霊性の教え、ヴェーダの伝統には、最も崇高にしてすべてを 抱きとめる哲学がある」
  歴史家D. P. Singhalは、二巻組の著作“India and World Civilization”(Michigan State University Press, 1969)で、インドが太古の世界の霊性に滋養を与えたことを示す豊富な記録を収めている。バグダッド近郊で発掘されたツボにより、研究者は次のような結 論に至ったと記す。「紀元前三〇〇〇年半ばまでに、インドの原始宗教はすでにメソポタミアで信仰されていた…(略)…考古学が示すように、くさび形文字の 記録よりさらに二〇〇〇年前、インドは西洋文明の起源となるこの国に工芸品を送っている」
 インドの霊性の影響力は、西だけでなく東にも広がった。「インドは国境にひとりの兵士を送ることもなく中国を 征服し、二十世紀にわたり統治した」北京大学の前学長であり、アメリカへの中国大使である胡適(こ・せき)博士は述べる。また中国の著名な言語学者であり 著述家林語堂(りん・ごどう)博士は、”The Wisdom of India”(New York: Ramdom House, 1942)で言う。「インドは中国にとって宗教と幻想文学の師であり、哲学では世界の師である。…(略)…インドは宗教とその精神に満ちあふれる国だ。イ ンドの宗教精神が中国へとあふれて流れ、東アジア一帯を浸していった」
 アメリカの高度文明にも明らかにインドの影響が見られる。「太古の時代、インドの文明ほど他国に広まった文明 はない」Singhal教授は言う。「よって、インドは世界の諸文化の中心を占めながら、人類の文明化にはかりしれぬ貢献をはたしてきた。インドと西洋世 界のふれあいは有史以前にさかのぼる」さらにSinghal教授は、傑出した科学者であり探検家であったアレクサンダー・フォン・フンボルトの言葉を引用 する。フンボルト男爵は、太古アメリカ文明の体系だった研究を確立し、高度に進んだプレ・コロンビア文明の起源もアジアであると確信していた。「太古の世 界と新世界のつながりについて、文献上の証拠が不十分であるというなら、宇宙進化論や古代遺跡、ヒエログリフ、アメリカとアジアの社会制度により完全に証 明される。
 メキシコに見られるヒンドゥー教、仏教の影響の痕跡は、南西アジアの仏教およびヒンドゥー教の僧侶らから派生 したものとまさに一致する」Singhal教授は、ローベルト・フォン・ハイネ=ゲルデルン教授の”The Civilization of the America”の帰結を引用する。「メキシコの宗教の偏見のない確かな比較研究により、メキシコの宗教にヒンドゥー教、仏教いずれか、または両者の影響 の跡が多数見られることには疑念の余地がない。…(略)…広義においても、細かな特定の部分においても、歴史上の関係性はほぼ確実である」(出版社注)
*2 参照として、スワミ・アベダーナンダのこの節の訳文より。「この時、彼の大いなる欲望は、神の完全なる悟 りに達し、瞑想をつうじ成就に至った人々の足もとで、宗教について学ぶことであった」───”Journey into Kashmir and Tibet”
 Dr. Charles Francis Potter師は、”The Lost Years of Jesus Revealed”(Greenwich, Conn.: Fawcett, 1962)で述べる。「ヒンドゥー教徒の多くが、イエスは『失われた時期』を少なくともインドですごし、教えの多くをヴェーダからえたと信じている。彼は こう言ったのではなかろうか。『私のヨガをとりいれ、学びなさい。このヨガはやさしき道である』yoga(ヨガ)もyoke(くびき)も、最後の母音を黙 字とし一音節で発音されるが、ギリシャ語ではいずれもzeugosと同じ語で表される」[サンスクリット語では、yogaの大まかな意は「yoke(くび き、結ぶこと)」のことである───出版社注]
 Potter師は続ける。「アメリカ人にとっては非現実的かもしれないが、イエスの教えとインドのつながり は、クムランの洞窟の文書[死海文書]ばかりでなく、エジプトで新たに発見されたグノーシス派キリスト教の写本[ナグ・ハマディ文書]により現実味をおび た。…(略)…『ヨハネによる福音書』の冒頭部分(およびその他数か所)───『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この 言は、初めに神と共にあった…(略)…』───は純然たるグノーシス主義である。グノーシス神秘主義は、インド、ペルシャ、バビロンといった東方よりユダ ヤ人に伝わった。バビロン捕囚のもとにあったユダヤ人の心に訴え、解放されその多くを持ち帰った。…(略)…
 用語や象徴、語彙があまりに異なることからグノーシス主義を過小評価するのでなく、グノーシスとはエジプトの キリスト教であり、?二〇〇年の間、信徒らの指導者がこの新しい神学大系を信仰したというべきである。この信仰体系は、正統派カトリックのキリスト教から はしだいにしめだされ、写本は焼かれた。同様に、エッセネ派はパレスチナの初期キリスト教の形である。…(略)…クムランとケノボスキオン[ナグ・ハマ ディ]には、これら初期キリスト教の膨大な文書があり、突如として劇的に、現代の私たちの手に戻りつつある。またエッセネ派とグノーシス主義はたいへんよ く似る。それに疑いを抱くなら、伝統的聖書の『ヨハネによる福音書』、とりわけ第一章を読めば、エッセネ派とグノーシス主義両者が混合され、私たちになじ みのあるキリスト教に昇華されたのがわかるだろう」(出版社注)
*3 太古から続くプリーのゴワルダン寺院で、歴代最高齢のシャンカラチャリヤとして、一九六二年の死のときま で指導者をつとめたシュリー・ジャガットグル・シャンカラチャリア・バーラティ・クリシュナ・ティルタによれば(シャンカラチャリヤは、伝統的ヒンドゥー 教のリーダーをつとめる聖職者。気高きスワミの伝統を再組織した、太古のスワミ・シャンカラの弟子に代々引き継がれる)、イエスがインドですごした記録は この街に保管されているという。シュリー・シャンカラチャリヤ・クリシュナ・ティルタは、一九五八年、アメリカの各大学の講演旅行に訪れた。この旅は ───シャンカラチャリヤが西洋を訪れたのははじめてであった───セルフリアライゼーション・フェローッシップが後援者となった。セルフリアライゼー ション・フェローッシップの代表であり霊性指導者のシュリー・ダーヤー・マータは記す。「シュリー・シャンカラチャリヤとインドの地を訪問したさい、彼の 知るところでは、パラマハンサジも言ったように、イエス・キリストが若い時期をインドですごし、その地の僧院で修養を授かった証拠となりうるものがあると いうことでした。さらにシャンカラチャリヤは、それが神の御意思であるなら、そうした記録を翻訳し、イエスのその時期について本をお書きになりたいとおっ しゃっていました。残念ながら、かの聖人シャンカラチャリヤは高齢であり、健康上の理由からも、それを成しとげるにはかないませんでした」
*4 ノトヴィッチは、ラダックのヒミス僧院で見た写本は、ラサ近郊の僧院に保管されていたパーリ語の写本を、 チベット語に翻訳したものだったと記録している。パーリ語では(サンスクリット語でも)、Isa(イーシャ)は「主、支配者、統治者」の意であり ───Issara(サンスクリット語Ishvaraのパーリ語表記)という言葉につながる。一方、ノトヴィッチの見た写本のIssa(イッシャ)は、 パーリ語で「嫉妬、怒り、悪意」の意となる───もちろんこれは、パーリ語の原典を記した仏教徒の意図したところではないだろう。(出版社注)
*5 講話二一の脚注参照。
*6 イエスの名前は言語により様々に綴られるが、意味は同じである。コーラン(アラビア語)でイエスに用いら れる名はIsaもしくはIssaであり───ノトヴィッチがチベット語の写本で見たものと同じである。多国の話し手による変化をへて、「Jesus(ジー ザス)」と呼ばれるようになった。この英語名は比較的最近のものであり、一六世紀以前には、ラテン語やギリシャ語(のIesous)同様、「J」は「I」 で綴られた。今日でもスペイン語では「Jesus」と「J」で綴るが、発音は「Hay-soos」である。
*7 ユガ、全世界的な文明の循環については、講話三九で解説される。 
[ 5-モクジ ]

 


  
=宗教の繁栄と衰退の循環=
  
 いつの時代もインドに存在した真に神を悟ったマスターらは、スピリットの永遠なる真理(「サナータナ・ダル マ」)を世代から世代へと維持しつづけてきましたが、大衆の宗教上の実践は、他国の宗教、他国の文化同様、繁栄と衰退の循環をへています。私のグル、スワ ミ・スリ・ユクテスワによれば、一番近い「暗き時代(カリ・ユガ)」の起こりと衰退は、紀元前七〇〇年前から紀元一七〇〇年にかけてのことです。この時期 インドでは、ヴェーダとウパニシャッドの崇高なる体系が堕落と損失にさらされ、経典の聖職者らは、数知れぬ誤った教えを経典の教えとして固執することにな りました。アヴァターのひとりゴウタマ・ブッダが、僧侶や学僧らによる真理の甚大なる誤用を正すためインドの地に化身したのは(紀元前五六三年とされる) この時期です。万物への慈悲、「八正道」といったブッダの教えは、誕生と死というカルマの車輪からいかに自らを解放し、不幸から脱するかを説きました。 (*1)
 
 チベットの写本は、イエスが仏教徒らとすごしながら仏教経典の教えを学びとり、それを完全に解説できたと伝え ています。おそらく二六才から二八才のことでしょう、イエスはイスラエルへの帰路にむかい、途中ペルシャや周辺の諸外国で教えを説き、民衆からは讃えら れ、ゾロアスター教その他の聖職者からは敵意で迎えられました。
 
 こうしたことは、イエスがインドおよび霊性の導き手や関わりのあった周囲の人々から、彼の教えのすべてをえた というものではありません。アヴァターらは独自に叡智をそなえ誕生します。旅の間、ヒンドゥー教の学僧や仏教の僧侶たち、とりわけイエスに瞑想による神と の合一の秘儀を授けたヨガの偉大なマスターらとすごしたことで、イエスのうちにあった神性理解の蓄えがゆりおこされ、彼独自の使命にそくし形づくられたに すぎません。イエス自身が集めた知識と、深い瞑想により自らの魂からもたらされた叡智から、イエスは人の一生をおさめていくべく理想の原理原則を簡潔なた とえ話に凝縮しました。しかし、教えを授かる準備のできていた近しい弟子らにはより深遠なる神秘を授けており、それは『ヨハネの黙示録』に示され、黙示録 にみられる象徴性は神を知るヨガの科学にまさに合致します。
 
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*1 時をへるにしたがい、ブッダの教えもまたカリ・ユガに蔓延するかぎられた理解力のえじきとなり、虚無の哲 学へと衰退した。ニルヴァーナ、つまり二元性の消失する境地は自己の消失であるとして誤って解釈された。ブッダは幻惑されたエゴ、偽の自己の消失をいった のであり、永遠なる真のセルフが輪廻転生からの解放に達するには、小さき自己(小我)を乗りこえるべきとした。のちのインドで、非存在(消失)という否定 の面を強調しブッダの教えを曲解したものは、時代を超え讃えられてきたスワミの伝統の創始者スワミ・シャンカラの教えにとってかわられた。シャンカラは、 つねに目覚め、つねに在り、つねに新たなる至福の境地、スピリットとの一体の境地への肯定的な到達こそ、生命の目的地であると教えた。 
[ 5-モクジ ]

 


  
=イエスの生涯の記録は いずれも執筆 者の文化背景に色づく=
 
 
 ノトヴィッチの発見した記録の重要性は、イエスの生涯の不明の年月、彼がインドですごしたという動かぬ証拠を 差しだしたことにあります。しかし予想されるとおり、それらの記録には執筆者の特徴が示されています。原本となる写本は、イエスの死後数年のうちにパーリ 語で記されたといわれます。パーリ語は、当時の仏教徒の言語でした。エルサレムから来た貿易商により、いまわしきイッシャの死、ともにすごした彼ら共同体 からそれほどまでに崇敬された人物の死がインドに伝えられ、彼らの神聖なる年代記の一部としてその歴史が記されはじめました。彼らの著述には、仏教徒らの 視点が自然と表れています。
 
 イエス自身が自らの生涯と教えを書き記していたなら、今日伝わるものとはたいへん違って表現されていたでしょ う。イエスの生涯のできごとを記した人々が最善をつくしてもなお、記し手ひとりひとりの視点は、彼らの背景から何らかの影響をうけています。ユダヤ教、グ ノーシス、ギリシャ・ローマ、仏教、ゾロアスター教その他の宗教的信条や、文化的偏見があり───言うまでもなく、ある言語からある言語に翻訳されるとい う打撃に加え、ときにはいくつもの言語をへています。
 
 たとえば、ノトヴィッチにより出版された写本はもともとパーリ語で記されており、数々の目撃証言や、様々な言 語や宗教を背景にもつ異教徒らの語り伝えるものが集められ、パーリ語で記されました。その写本がインドからネパールへ、さらにチベットのラサに運ばれ、チ ベット語に訳されて主要な僧院に配されました。ロシア人であるノトヴィッチは、通訳の助けをえてチベット語の写本を書き記したものを、最終的にはフランス 語で出版しており、それが英語に訳され出版されました。
 
 そうではあっても、これらの記録の全体としての価値は、イエスの歴史をひもとくうえできわめて重要です。ア ヴァターを知るには二つの方法があります。ひとつは、その人物にまつわる事実や、意図的にまた他意なく変更された伝承のよせ集めから、本質を見きわめるこ とです。人が着ている服でなくその人自身で知られるように、重要なものとそうでないものをより分けていきます。ふたつめは、その人物との直観による神聖な る合一をつうじ、じかに知ることです───アッシジの聖フランシスのもとには、夜になると肉体をそなえたイエスが姿を顕し、またアヴィラの聖テレサその他 のキリスト教の信徒にも、イエス・キリストは何十世紀もの間そのようにして知られてきました。ヒンドゥー教徒では、シュリー・ラーマクリシュナ、また私自 身の前にも、イエスは何度となく姿を顕しています、個人的にそうしてキリストを知り確証をえていなければ、決して私が本書を書くこともなかったでしょう。 
[ 5-モクジ ]

 


  
=西洋化されすぎた東方のイエスの教え =
   
 ノトヴィッチに見いだされた文献は、以前よりインドで長い間集めてきた私の見解、イエスは彼をゆりかごまで訪 ねた東方の三博士をつうじてインドのリシらと結びつき、そのことから、リシらの祝福を授かり彼の世界的な使命への恩恵を授かるためインドに行ったのだ、と いう私の見解に裏づけを与えました。イエス自身の内なる神への理解と、マスターと学ぶことで外側から養われ生まれたイエスの教えは、人種や教条を問わない キリスト意識の普遍性を示していた、それこそ私が本書全編をつうじて明らかにしようとしていることです。
 
 太陽が光を広げるのに東から昇り西へむかうように、キリストも東洋から西洋へむかい、西洋はイエスを自分たち のグルであり救い主とする膨大なキリスト教圏となりました。イエスが「東洋のキリスト」としてパレスチナで誕生するのを選択したのも偶然ではありません。 その地は東洋と西洋諸国を結ぶ中枢です。リシらの結びつきに敬意を表してインドへ旅立ち、諸地域でメッセージを説いた後、パレスチナに教えを広めるべく戻 りました。彼は大いなる叡智の内で、パレスチナの地が、彼の魂と言葉とが西洋をはじめ周辺諸国への道を見いだす扉であると知りました。イエスは神を愛する 東と西の人々を結ぶ、神なる大使です。
 
 真理は東洋にも西洋にも独占されません。太陽の純粋なシルバー光線は、赤や青のガラスを通せば赤や青に見えま す。時代や地域ごとに表現された真理の神髄をみれば、それぞれのメッセージの違いがごくわずかであるのが分かります。私は、私のグルとインドの崇敬すべき マスターらから受けとったものと、キリスト・イエスの教えから受けとったものが同じであると知りました。
 
 西洋の兄弟姉妹らから問いかけられると私は愉しくなります。「あなたはキリストを信じますか?」私はいつもこ う答えます。「キリスト・イエスを信じます」───キリスト意識を顕現した神なる息子、「神のひとり子」を。
 
 キリストは、世界的にたいへん誤って理解されています。彼の教えの最も基本的な原則さえ俗物化され、その深遠 さは忘れられてきました。教条、偏見、偏狭な理解により、十字架刑にさらされています。人間の手で作られたキリスト教の教条を権威とし、大量虐殺をともな う戦争、魔女や異教徒らの火刑がなされてきました。不滅の教えを、どのように無知と混迷から救いだせばいいのでしょう。私たちはイエスを東洋のキリスト、 神との合一の普遍的な科学を完全に修め、証した至上のヨギとして知り、神の声と権威をそなえる救い主として話し、ふるまわねばなりません。彼はあまりにも 西洋化されすぎています。(*1)
 
 イエスは、生まれも血肉も、彼の受けた教えも、東洋のものでした。彼の背景となる国と師とを切り離してしまう と、彼への理解がくもらされてしまいます。キリスト・イエスその人自身が誰であれ、彼の魂についていうなら、東洋で生まれ東洋で成熟しており、彼がメッ セージを広めるためには、東洋の文明、文化、様式、言語、寓話を媒体として用いる必要がありました。よって、イエス・キリストと彼の教えを理解するには、 東洋の見地に心開き共鳴することです───とりわけインド太古から今日までの文化、聖典経典、哲学、霊性の信条、直観的な形而上的体験に。イエスの教えは 普遍的なものですが、秘儀として解されたなら、東洋の神髄に満ちあふれています───東洋の影響下に根づき、西洋社会に適用しうるものとなりました。
 
 各福音書とも、インドの教えの光をあてたなら正しく理解されることでしょう───カースト制や石像崇拝といっ たゆがんだヒンドゥー教の解釈でなく、哲学的かつ魂の救済となるリシらの叡智によって。この真理の神髄───サナタナ・ダルマ、人と宇宙を支える永遠の正 しき原理───は、キリストの時代より数千年の昔この世に授けられ、空虚な娯楽でなく神の探求をこそ人生最大の目的とし、霊的に活気づくインドの地で守ら れてきました。
 
 時代とともに、ヒンドゥー教にもキリスト教にも、その宗教概念には、意味をなさない迷信やつまらぬ地方性がつ みかさなってきたにもかかわらず、いずれも人類にはかりしれぬ善きものをもたらしてきました───悩み苦しむ何百万という魂に、平安、幸福、慰めを与え、 霊性において最上の努力をするよう鼓舞し、おおぜいの人々に救済を授けました。
 
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*1 一九四五年、エジプトのナグ・ハマディで、初期キリスト教グノーシス派の写本が発見されるというめざまし いできごとにより、この「西洋化」の過程でかつてのキリスト教から何が失われたのかうかがい知ることができよう。エレーヌ・ペイゲルスは、『ナグ・ハマ ディ写本』(荒井献訳・湯本和子訳、山陽社、一九九六年、一三?一九頁)の中で記す。「キリスト教紀元の初期に流布されていたナグ・ハマディ文書やこれに 類似した文書は、二世紀中葉に、正統派キリスト教徒によって異端として退けられた。…(略)…しかし、これらのテクストを書き、それを流布した人々は、自 らが『異端者』であるとは思っていなかった。文書の多くはキリスト教の術語を使い、まぎれもなくユダヤ教の伝統に関わっていた。その多くは二世紀に『カト リック教会』と呼ばれるようになったものをつくった『多教者』の目から隠されていた、イエスに関する秘密の伝承を提供しようとしている。このようなキリス ト教徒たちは、現在グノーシス主義者と呼ばれているが、この呼称はギリシア語のgnosis(グノーシス)に由来し、通常knowledge(「認識」) と訳されている。究極の実在は知り得ないと主張する人々のことをagnostic(不可知論者───字義通りには、「知らないこと」)と呼ぶが、他方、そ のようなことを知り得ると主張する人々のことをgnostic(グノーシス主義者───字義通りには、「知ること」)と呼ぶ。しかしグノーシスは、元来、 合理的認識ではない。ギリシア語では、科学的ないしは反省的認識(「彼は数学を知っている」)と、観察や経験を通して知ること(「彼は私のことを知ってい る」)とが区別されており、後者がグノーシスなのである。グノーシス主義者がこの用語を使う場合、われわれはこれを『洞察』と訳すこともできるであろう。 というのは、グノーシスは自己を認識する直観的過程を意味するからである。また、彼らの主張によれば、自己を認識することは、人間の本性と人間の運命を認 識することである。…(略)…
 『生けるイエス』は、迷妄と覚醒を語るが、新約聖書のイエスのごとく、罪と悔い改めを語りはしない。またイエ スは、われわれを罪から救うために来臨するのではなく、人間に霊的知解への接近を拓く導師として来臨するのである。…(略)…
 正統的キリスト教徒は、イエスを、彼のみが主にして神の子であると信じている。イエスは、彼が救済するために 来臨した人間とは、永遠に峻別されているのである。これに対して、グノーシス派の『トマスの福音書』では、トマスがイエスを認めるやいなや、イエスがトマ スに、両者ともその存在を同じ源泉から授かった、と言っている。「イエスが言った、『私はあなたの先生ではない、なぜなら、あなたは私が量った湧き出ずる 泉から飲み、酔いしれたからである。…(略)…私の口から飲む者は私のようになるであろう。そして、私もまた彼になるであろう。そして、隠されていたもの が彼に現れるであろう』」
 このような教え───神性と人間性の同一性、迷妄と覚醒に対する関心、主としてでなく霊的導師としての創立者 ───には、西洋的というよりも、むしろ東洋的な響きがあるのではないだろうか。…(略)…ヒンズー教あるいは仏教の伝承が、グノーシス主義に影響を与え 得たのであろうか。…(略)…東洋の宗教を連想せしめる思想が、一世紀にグノーシス運動を通して西洋に現れたのである。しかしこの思想は、エイレナイオス のような反異端論者によって弾圧され、排斥された」(出版社注) 
[ 5-モクジ ]

 


  
=東洋のキリスト教と西洋のキリスト教  ───内なる教えと外側の教え=
   
 私は、キリスト教の正しい視点、イエスの教えの集積を復旧しようと努めています───西洋的な教義や宗派独自 の教条を付与され、長所ばかりでなく雑多な欠点をもそなえる「キリスト教会の教え(Churchianity)」と読んだほうがふさわしいともいえるもの から、あらゆる偏見偏向をとりのぞくことにより。「キリストの教え(Christianity)」───つまり純粋なイエスの教え───を理解するには、 まず西洋という外皮をとりのぞき、さらにはそこから東洋という外皮をもとりのぞかなければなりません。この二つのくすんだ覆いの背後に、真の「キリストの 教え」の普遍性が見えてきます。
 
 西洋のキリスト教は外側の覆い、東洋のキリスト教は内側の覆いです。東洋のキリストはつねにこう強調します。 「自分の体のことでを何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。人々よ、糧(かて)を求めるより大切なこと、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの ものはみな加えて与えられる」西洋のキリストの主張はこうです。「まず体のことを思いなさい。健康な体という寺院に神を見いだすだろう。人々よ、まず糧を 求めなさい───そうして、神の王国を求めなさい」
 
 温暖な東洋の気候にあっては、「糧」、衣服、住まいは簡素であり、どの時代においてもひどく骨折ることなく手 にすることができました。よって、休息のとき、独り身を離して神を瞑想するのは比較的たやすいことです。しかし西洋では、人工的な生活様式が高水準にある とはいえ、それら物質的な必要を満たすためには、より懸命に、迅速に、首尾よく頭を働かせ、また労働しなければならず、つまりは神の王国を求める時間はな く、求める強さを抱くこともありません。
 
 イエス・キリストの教えの普遍性は、東洋と西洋それぞれのニーズにしたがい、分別をもって───キリスト教と いう宗教の「原則」に重きをおき、時代をへるにしたがい加えられてきた必須でないものをとりのぞいていくことで───適用されるべきです。しかし、本質的 で生き生きとしたキリスト教を、東洋の世界から西洋の環境へと移植するには多大な心遣いが必要です。さもなくば、医師が「手術は成功です」と言っても、患 者は安らかに死んでしまうこともありうるのです! 東洋の宗教の救済 の手法と、西洋のいう救済の方法に違いがあってはなりません。違いは、真のキリスト 教の原理と、教条にしばられた信条との間にこそ見いだされるべきものです。
 
 東洋の「キリストの教え」では、教会に通い、説教を聴き、聖書の神学論を学ぶというのは、霊性の幼少期とみな されます。そうしたことの目的は、科学的な瞑想に自らとりくみ、魂の直観的な理解の光のもとで神を見いだし自己覚醒に至った導き手の指導のもと、宗教上の 信条の数々を科学的で深遠な瞑想という研究所で検証する必要があると示し、また準備することにあるとされます。西洋のキリスト教は、社会全体が無神論や不 道徳へと堕落することからは救いましたが、科学的な瞑想により自ら努力し成長することで、個々人が形而上的な神体験に達しようという欲望、またそれが可能 であるものとしての信仰心を目覚めさせるにはおよそたりません。
 
 西洋の宗教的な社会への慈善は、それが心を神にむかわせるものであればすばらしいものとなりますが、瞑想や実 際に神とひとつとなる手法の叡智に欠けるなら、十分とは言えません。一方、東洋は個々人が神をじかに悟ることを強調しますが、社会の幸福のための組織だっ た慈善が要されています。イエス・キリストの教えを理解するには、社会の幸福のための組織的な慈善と、個々人が教えを形而上的に学び、瞑想という寺院でじ かに神とふれあうことでキリストの教えを確かなものとする、その二つを結びつけることが大切です。そうして、おのおのが教えを直観により確かめ、イエス・ キリストがどんなであったか、どんなであるかを自ら知ることができます。 
[ 5-モクジ ]

  


  
=真理が究極の宗教 帰属 宗派の意義はわずか= 
 
 真理それ自体こそ、究極の「宗教」です。真理とは、宗派の「主義主張(ism)」により様々に表現しうるもの ですが、それで尽きるものではありません。無限に解釈され無限に枝分かれしますが、最終的な到達地点はひとつであり、神、唯一なる真理の直接的な体験で す。
 宗派への帰属という人間社会の刻印が意味するところはごくわずかです。自分の名をつらねる宗派、生まれながら の文化や教条、それらが救済を与えるのではありません。真理の神髄は外側の形式すべてを超えます。この神髄こそ、イエスの教え、「内なる神の王国」に入る ようにとの人々への普遍の呼びかけを理解する最たるものです。
 イエス・キリストの偉大なメッセージは、東洋でも西洋でも息づき栄えています。西洋では物理的な諸条件を完成 させていくこと、東洋では霊性の可能性を育むことに焦点がおかれてきました。東洋も西洋も一面的です。言うなれば、東洋は実際性の点で不十分であり、西洋 は霊性面で実践的であるにはあまりに実際的すぎます! 私が両者の調和と統合を提唱する理由はここにあるのであり、両者は互いを必要としています。霊性の 理想がなければ、物質面での実際性は利己主義、罪悪、競争、戦争の予兆ともなります。これが西洋の学ぶべき点です。また、理想主義が実際性で練りあげられ ないなら、混乱と悲しみがあり、自発的な成長に欠けるでしょう。この点は東洋が学ぶべきところです。
 東洋は西洋から、西洋は東洋から学ぶことができます。東洋に物質的な成長が要されたことから、おそらくは神の ひそかなご計画により、西洋の物質文化の東洋への侵略がなされたのであっても不思議はありません。西洋には霊性面のバランスが要されたことから、神の理解 という救済をたずさえるヒンドゥー哲学が、沈黙のうちに、しかし確実に、大陸ではなく人々の魂を「侵攻」してきました。(*1)
 私たちはみな、はじまりより永遠にいたるまで神の子です。違いは様々な偏見より生じており、偏見とは無知の子 どもです。アメリカ人、インド人、イタリア人その他の自分を誇るべきではありません。偶然生まれたにすぎないからです。何よりも、神の子であること、神の 似姿として創られたことを誇りにすべきです。それこそキリストのメッセージではないでしょうか。
 キリスト・イエスは、東洋と西洋両者の続くべきすばらしき模範です。神による「神のひとり子」という刻印は、 どの魂のうちにも存在します。イエスは法を明言しました。「あなたが神である」(*2) 仮面をはずしましょう! 神のひとり子として歩みでましょう ───高らかな飾り文句や記憶した祈りの言葉、神を讃え改宗者を集めるために仕立てあげられた説教という花火によってでなく、真に理解することにより!  知識の面という偏狭さになるのでなく、キリスト意識となりましょう。物質面、霊性面両者において、全てへの奉仕で表される普遍の愛となりましょう。そのと き、イエス・キリストがどんなであったか知り、魂のうちではすべてがひとつ、すべてが唯一なる神のひとり子であるのだと言えましょう!

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*1 以下はオクスフォード大学の著名な比較宗教学者W. Y. Evans-Wentzが一九三二年に記したものである。「エジプト、ギリシャ、ローマの霊的伝承はすばらしきものであるが、さらにすばらしきはインドが 東洋の賢人らの代理人、『ヨゴダ(セルフ・リアライゼーション)』のまれなる創始者スワミ・ヨガナンダをつうじ、欧米に差しだした霊性の伝承である。我々 のこの時代に至るまで連綿と続く長き伝統のひとりである。このスワミは、伝統の代々の継承者らが世紀を超え解説してきた生命の至上の科学を説きに西洋諸国 を訪れた。
 彼の世代の輝かしき『インドの子どもら』には、東洋のいうキリストを西洋の神学が数十世紀にわたり押しこめて きた檻から解き放ち、古くもたえず新たなる俗世の断念と無私というメッセージを掲げ、人類の歴史上偉大な宗教の創始者らすべてが歩み明かしてきた、解放と 探求のための唯一なる自己覚醒の道を示すことがいまだ残されている」
*2 『ヨハネによる福音書』 一〇・三四 「そこでイエスはいわれた。『あなたたちの律法に、「私は言う。あ なたたちは神々である」と書いてあるではないか』」

[ 5-モクジ ]



  


 




   
 
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